ポリフォニーとしてのDID
DIDは脳内に複数の人格を持つ、と端的に説明されてしまうが現実にそんなややこしい脳で毎日を過ごすその実態を表現するのに、ポリフォニーという言葉がたいへんしっくりとくる。
ポリフォニーとは音楽用語だ。一つの曲の中に同時進行で複数の旋律、リズムが存在する。それほど詳しくはないがバッハの平均律、クラヴィーア、パルティータがそうである。
14歳の時に私は音楽室で友人の弾くバッハの平均律、ハ長調のやつだった、を聴き思わず鳥肌が立った。その日から私はほぼ独学でピアノをマスターして一年くらいで平均律を弾けるようにまでなった。
当時そうした楽器演奏や学校関係のあれやこれやを引き受けてくれたのはT氏(交代人格のひとり)とこのブログのIDであるusaoであるが、ポリフォニーの持つ真実味、かつその美しく完結したメロディ構成と調和のとれた楽曲に私たち人格のすべては打たれた。触発され、活気だった。
ポリフォニーのメッセージはこうである。
ばらばらでいい。そしていつも一緒に進んで行ける。誰にも邪魔されない封鎖された脳内ワールドがこの日に確立してしまったことは事実だ。
DIDはやっかいだ。
特に私のように少々安定したかのように過ごして来たDIDはとくにそう言える。
なぜ?うまくやって来たのに?
DIDの実態は懐疑である。
重要人物を絶対に認めない。
親密とは接近であり、対話すべてが支配への恐怖となる。コントロールされる前にコントロールしてしまえ、という思考回路だ。
おそらくDIDの回復はこうした対人関係における思考回路のリプログラミングとなるのだろうと、なんだか人ごとのようだけど、ようやく今は感じることができている。
友達もスキルも脳内に完結している。
そんな間違った認識なのだ。
ただしバッハは美しいですよ。
言っときますけどね。