ソウルサバイバーの逆襲

なにやら物騒なタイトルだが、これはニューエストモデルというグループの歌のタイトルだ。「雑種天国」「渡り廊下にランプを」「独りよがりの風」など彼らの名曲は多い。ニューエストモデルというグループはもうない。確かメスカリンドライブと合体して、今はソウルフラワーユニオンというグループになっていると記憶している。

おしゃべりは信じないよ

嘘のような気がして

とか、そんな歌詞だった。懐かしい。記憶の神殿をたどる時、DIDには思いがけない宝物があったりする。ニューエストモデルの中川敬にはたいへん触発された。闘いをやめない人はみんなそうだが、彼もまた立ち止まることはない。これらの歌は私の記憶の中でだけ生きている。DIDが実在者を苦手とするのは、そんな懐古主義の現れだ。へなちょこなのだ。

複雑性ptsdの要因のひとつに、安心して居られる場所の欠如をあげることができるだろう。朝鮮からの移民を祖父母に持つ私は、植民地文化の中で育った。安心などなかった。

いわゆる在日だが、この言葉のパワーたるや凄まじい威力がある。だからあんまり使いたくない。コミュニティといえばかっこよ過ぎるが、在日と発するだけで世間が個人を食い物にする状況が発生する。そんなすったもんだにはうんざりだ。私は親日でも反日でもない。

一介の主婦に過ぎないのです。

クレオールというとアフリカとかカリブ海とかそんな地域を思い浮かべる人が多いが、広い意味でこの言葉は植民地育ち、とも使えるそうである。

国家主義民族主義アイデンティティを求めるなら政治家か慈善家にでもならない限り満たされることはないだろう。

祖国の分裂を悲しむ気持ちとそれを背負って行きて行こうとすることには大きな隔たりがある。どちらも否定も批判もする気は無いが、DIDを語る時、当事者として冷静になるために、私はまるで旅行者の一人であるかのように、あの喧騒と怒号に満ちた朝鮮人コミュニティでの暮らしを振り返る。それがクレオールというかっこいい一言だ。

無責任?DIDには責任者など存在しない。今日はちょっと威張ってるねー。

そこにはいつも不安があった。自分の周りをぐるりと見回す。360度の存在否定。植民地ってそういうことだよね。感情を殺すことに慣れる日々。

ちょっと大げさ?時代は変わった?暴力が好き?そんな人はもっと可哀想。

自分の過去と向き合うことにはちょっとしたコツがいる。自己憐憫や責任転嫁、いっときの復讐感覚には得るものなどひとつもない。大波がやって来る。パドリングを続けながらバランスを保って波に乗る。この海は大きくて広い。DIDは幾つもの死体を見る。真実という死臭と立ち向かう。忌むべき事態で子どもが泣き続けている。どう考えてもこれが回復につながるとは思えないのだ。もう一度死ぬのだから。ぶつかり合う波にもまれて呼吸困難になる。その音、その匂い。

今日の脳内BGMは若き日に宴会で歌った「アリラン」。

歌って踊れる民族性を誇りに思う。私は生きながらえて大人になったのだ。