あしながおじさん

あしながおじさん」はJウェブスターという人が書いた物語だ。私はこの物語が大好きで、たとえば週一でもずくを食べている、とかヨーグルトは毎日欠かさない、的な、すごく日常に密着した形でこの本を繰り返し読む。DIDの記憶力は普通の人と少し違っていて、何か一連の記憶を想起することは確かに得意だ。しかし「あしながおじさん」は何か違う。一週間を超える長旅であれば文庫サイズのこのおはなしを迷わず携帯する。

私は今でこそ本を読むことが出来るようになっているが、学生時代は学習障害を抱えていた。生まれて初めて読んだ本は、ひらがなばかりで書かれたシンデレラ物語だった。文節は読めた。そして文章も理解した。しかし次の文章に移る時、その関係性に強くこだわってしまい先に進むことができなかった。何故そのような行動に出たのか?突然現れたこの人はどんな人なのか?はてなはてなで進めない。何も見えない、何もわからないのだ。たった二行で初めての読書は終了だった。

小学生になった私にとって、教科書は苦痛以外の何物でもない。そのころ数字に対する強いこだわりも持っていた私は二桁の足し算や引き算が出来なかった。厳密には一桁だ。特に3、5、7が苦手だったことを覚えている、。10から7を引く。これは出来る。しかし10に7を足す。これが出来ない。出来ないというより我慢ならないのだ。7は7であり、それ以上でもそれ以下でもない。九九が始まった時は7の段とか暴れ出しそうだったな。

私は知能検査を繰り返し受けたことや、教員が何度も家庭訪問をし、母に私の学校での様子を話していた光景をよく覚えている。もっとも私の学校生活は学習障害以前の多動性や攻撃性という、もっと深刻な問題を抱えていたから、何かしら家庭訪問のお話は別のニュアンス、お宅ではどういうしつけを?みたいな感じだったような気もする。

母は教員の勧めで私が毎日日記を書く取り決めをした。私はその日の天気、その日の忘れ物(とにかく忘れ物が多かった)、その日の出来事などをノートに書いた。始め単語のその記録はだんだん短い文章となっていく。母は冷たい人で、私の日記を読むことはしなかった。しかし決められた事をこなす事が好きだった私は毎日日記を書き続けた。

3年生になった時のある日、物語を要約する、という授業があった。その時の混乱を忘れる事は出来ない。日記の楽しさから集中力を多少身につけていた私だが、おそらくすべての物語に筋書きがあることを理解出来なかったのだろう。それを抽出するという作業にお手上げし、私は長い時間をかけて全文を書き移してノートを提出した。教員は私に強い関心を抱き、私に辛抱強くあれやこれや対話を重ねた。それをなんとなく覚えている。それでどうなったのか?残念なことにこの頃の記憶は少し別の要因もあり、酷く途切れ途切れである。

あしながおじさん」は初めて買ってもらった本だ。やはり3年生の冬のことだった。父は当時私を連れて本屋へ行くことが多かった。私は父に欲しい本はないかとたずねられ、当惑した。そんなものあるわけがない。父は何かの判断でこの本を選んだ。ハードカバーで箱付きのこの本を私は抱きしめて帰った。

この年の私は荒れていた。同じクラスの男子生徒と学校の廊下で取っ組み合いになり、私は圧倒的な力で勝利した。男の子の怪我は打撲ですんだが私は学校1の問題児となり、それが授業中であろうと校庭を走り回る私を咎める教員はとうとう一人もいなくなった。母は私が24時間肌身離さず連れ歩いていた(もちろん学校へも)小熊のぬいぐるみを無理やり私から取り上げ、中庭の焚き火に投げ入れて燃やした。母なりの私への関心の払い方だったのだろう。ぬいぐるみと対話する娘を見るに見かねての判断だったのかもしれない。

あしながおじさん」に戻ろう。

私は良い子になりたかった。そして唯一の逃げ場であった学校から見放されたくはなかった。この年には何人かの交代人格が生まれている。

あしながおじさん」との格闘を今も覚えている。ゆううつな水曜日という前書きを理解出来たのは数年後のことだ。この本は書簡型小説というらしい。つまり日記のようなものだった。私には適当な本である。父がそのことを理解していたのかどうかを知る術はない。時間はかかったが「あしながおじさん」を読了した時の達成感を忘れる事は無い。

不安な時、孤独な時、私は大人になった今も「あしながおじさん」に戻って行く。いわば私のエンパワメントだ。今日はもっと別の事を書くつもりだった。なんかしんみりして来たけどまあ仕方がないや。

ではでは、このへんで。