朝刊

「朝刊」はグレープというバンドのヒット曲で、70年代の曲だ。歌っているのはさだまさしだ。

どちらかといえば私はこの曲はメロディとアレンジが素晴らしいと思っていた。久しぶりに聴いてみた。いいなあ。そしてこの曲は歌詞もなかなかだ。この妻はたぶん若くて可愛らしい。しかしトーストを焦がしたり、高級食材を煮てダメにしたり、ただの食べ過ぎの夫を死ぬのではないかと思い込み大騒ぎするという、はちゃめちゃなのである。夫は寛大である。むしろ君のそんなおっちょこちょいなところ、好きだよ、みたいな、そんな平和な歌である。 私が特に気に入っているフレーズは「ごめん〜なさい〜ってい〜ながら」のメロディのヤマである。いいなあ。しかしその次の詞ではなんと妻は謝りながらも笑いこけるという傍若無人だ。力強い。したたかである。 私がこの曲を初めて聴いたのは中1の時だった。確か三千円くらいかかったような記憶があるがアコースティックギターとカポ、ピック、首から吊り下げるタイプのストラップなど買い揃えた。頼み込んで買ってもらったのだろう。私は嬉しかったんだろうな。お小遣いというものは無かったような気がする。グレープの朝刊、それからビーターポール&マリーの風に吹かれて。等々。私はひとり弾き語りの猛特訓を続けたものだ。 私には統合失調症の友人が1人いる。彼女との出会いはこの時代である。しかし当時は一緒に遊んだりすることは無かった。数年前偶然出会った彼女が統合失調症を患っていて驚いた。少し悩んだが私もそうであると伝えたところメールや電話のやりとりが始まった。 リミットセッティングという言葉がある。ここまでは大丈夫、ここからはあかんで。そういう線引きのことだ。なんで自分がこんな言葉を知っているのかわからない。おそらくJPが調べたのだろう。時々彼女からの電話やメールに悩まされる事がある。彼女に悪意はない。それはわかる。だが私はここのところ彼女からの電話には一切出ない。メールのみだ。「ねえ、薬飲んでる?」知らず知らず私も言葉がきつくなるからだ。 主人に相談した。彼女は何を求めているのか?それがわからない。主人は笑いながら、電話出なきゃいい、という。主治医にもちょっと話すと、付き合うのやめたら?という感じ。 今月彼女はODをして救急搬送された。彼女はひとり暮らしで家族もいない。家に戻ったらしい彼女からのメールでそれを知りびっくり。誰が救急車呼んだの?自分で呼んだ。嘘。そんなこと有るの?私は唸る。そして落ち着かない。彼女のことが心配だ。 私も彼女も調子が良かったある日、2人でショッピングモールへ行ったことがある。彼女は上機嫌でハンドルを切りながら言う。「ねえ、あたしたち頭オカシイ人間が2人で出かけて大丈夫なのかね」「まずいな」私も笑う。 彼女の人生は悲しい。実家は金持ちで父親は大物だ。何不自由なく育っていた彼女は中学時代、ちょっと一匹狼的だった私のことが怖かったと打ち明けるのだが、私は現在まで自分の人生がどうだったかなどと彼女に話す気分にはまだ一度もなれない。お嬢様育ちで何処と無く品のある風情の彼女は、黙っていれば病気のことなど誰にもわからないだろう。 夫や孫がいて幸せね。昨日も彼女の妬みモードメールが始まった。私なんかそのうちのたれ死ぬわ。いやいや、いやいやいや、こう見えてもね、私も結構毎日きついっすよ〜。とか、どうしても私は言えないのだ。 私は医者じゃないし、カウンセラーでもない。そういう立場に憧れるということも一切ない。彼女からのメールにはのらりくらり相づちを打つ。励ますなんてこともしないし、批判する気もない、そんなスタンスが私は精一杯である。 タイトルに戻ろう。病気さえなければ、と彼女はよく口にする。そうかな?朝刊の歌詞に出てくる夫婦はもちろんフィクションだけど、何かうまくいかないことなんて、結構みんなあるものじゃないか。誰だってくよくよして、落ち込んで、でも立ち上がって翌日を生きるのだろう。自分を悲劇の主人公だなんて考えるのは愚の骨頂だ。 彼女は中学時代ソフトボール部三塁手だった。ピッチャーをしていたちょいワル娘と私は仲良しで、練習に混ぜてもらい打たせてもらったことがある。あの頃楽しかったね。ね。私たちはまるでボケ老人のようにいつもの会話に落ち着いた。 したたかに行こうよ。 笑いこけてすっ飛ばして進もうよ。 うまく励ますことができなくてもどかしいが、そんな気持ちでいっぱいだ。