ベイビー・アイ・メイク・ア・モーション

日が落ちても風がまだなまあたたかい。往来の車の音が気になる。テレビも見たくない。音楽ももういい。ちょっと気持ちが暗い。このところ記憶の侵入を防げない。精神科の主治医はもう逃げても無駄だと真剣な表情だったな。とにかく記憶は溢れる。

主人との出会いはライブだった。高3の夏休みだ。それぞれ連れがあり、合流した感じ。私の連れは当時一緒にバンドを組んでいた隣のクラスの男子2人だった。確かRCサクセションのホールコンサートだった。

バンドを組んでいたと言っても私は一時的にバンドに加わった頼まれメンバーだった。楽器屋さん主催のコンサートに出るというその隣のクラスの男の子たちのバンドに、急遽キーボードとして参加した。タンバリンとコーラスもせねばならない。そんな感じだった。

私は断った。そのバンドはフュージョンバンドで結構芸達者が揃っていてバンド未経験の私には敷居が高かった。そして私は当時ロックが好きだった。ピストルズストレイキャッツシーナ&ロケッツ、ザモッズ、ルースターズ。等々。自分でも硬派な方だと考えていた。だから演奏曲の1曲目がレイジーのベイビーアイメイクアモーションと聞いておいおい、と思った。でも男の子たちはレイジーのこの一曲への思い入れが深く、キャッチーなリフはツインギター、ギターソロをタンバリンでサポートする。そしてキーボードは必須だという。とにかく聴いてみてよ、と手渡されたテープを聴くことにした。私はテレビでしか知らなかったこのレイジーのヒット曲をじっくり聴き込んだ。影山ヒロノブのボーカルは悪くない。確かにキーボードはあった方がいい。コーラスに高音があればいいかもしれない。私は何と無く耳コピしてスタジオに行き、一緒に練習を重ねた。正直楽しい時間だった。何しろ彼らは真面目だった。私もついつい熱が入った。

RCに行くことになったいきさつを覚えていない。その日私は体育の補講があり、教務主任のお説教もあった。2人は私を自転車置き場で待っていてくれ、3人で駅のトイレで着替え出かけたことを覚えている。

主人と出会い、私は知己を得た。その後は主人と親密になり、ARBやザモッズやシーナ&ロケッツのライブに一緒に出かけた。 私の結婚出産後、一緒にRCへ行った男の子の片方が一度うちへやって来たことがある。彼はまだ生まれたばかりの次女の小さい手に当時目新しかった五百円硬貨をにぎらせたりした。彼は当時大手の広告代理店に勤務していた。

出世街道をまっしぐらだった彼は27歳の6月に自宅マンションから飛び降りる。投身自殺をした。死んだのだ。

私は彼と高校卒業後の一時期、手紙のやりとりをしていた。彼が自殺したとき、私はふと彼がいつか手紙の中で、ロックンローラーは27歳で死ぬ、と書いていたことを思い出したのだ。シドビシャスの言葉だったか。彼はその通りに27歳で死んだ。死ぬのは私のはずだった。彼の人生は順調だった。

当時も今も私は鈍感で、感情表現が下手だ。信頼関係を築き上げることが出来ない。彼は養母との折り合いが悪かったことや、役職に就いている父親への反撥を抱えて苦しんでいた。でも私も当時は自分の事で精一杯だったし、音楽の趣味のピッタリ合うBFとして申し分の無い主人との付き合いにも相当のエネルギーが必要だったから、彼の孤独にシンパシーを感じながらも放置していた。

葬式で会った、一緒にRCへ行ったもう一人と男の子(もう大人だよね)が説明してくれたのだが、自殺はアメリカ出張の前日であったこと、一週間後には会う約束をしていたこと、おそらく誰にも自殺を止めることは出来なかっただろうということ。彼は融通のきかない、誰にも心を開かない人間だったのだという。死ぬのは自由だ。人間は自由意志を持っている。でもこの時は自殺は暴力に似てると思った。彼の家族や友人たちは皆一様に打ちのめされていた。

高校時代の器用だった彼の「ベイビー」でのギターソロを今も覚えている。今思えば目立ちたがりのギターソロだった。死んだ人間を評価するのは間違いだ。おそらく私と彼は心の病気を抱えていた。そして二人ともそのことを認識していなかった。今なら言えるか。死にやすいから気をつけよう。やばい夜はお薬飲んで早めに寝よう。そんな言葉は役に立たないか。きっと後悔しているはずだ。自殺は自己満足で利己的なカッコ悪いことだ。

私は冷淡な人間だった。解離は手遅れなことばかりだ。そもそも人を救うなんて僭越なことだ。出来やしないことなのだ。とても苦しい。なんだか現実がうまく掴めない。生身の人間て弱いな。それは間違いない真理だ。こんなことありふれたことなのだ。