その木戸を通って

夜だ。BGMはスピッツスピッツを初めて聴いたのは1989年ごろ。インディーズのアルバムを当時働いていたレコード店で聴いた。「死に物狂いのカゲロウを見ていた」「ヒバリのこころ」等々。ライブにも行った。ピーズ、ピロウズスピッツというライブで、場所は忘れたな。ボーカルのマサムネはオーバーオールを着ていて、ふてくされた顔をしていたな。あれから何十年も経ってしまったが今も時々スピッツを聴く。私の気に入ってる曲は「サンシャイン」。アルバムはなんだったかな。気だるい退廃的などん詰まりな感じの曲だ。スピッツって本当はこういう、だってしょーがないやん、みたいな言い訳みたいな歌がよく似合うな。スピッツを聴くと無理しない方がいいよ、等身大で生きることが何よりだよ、と諭されているような気がする。

本を読む。村上春樹とかそれに追従する幾つかの作家の、ちょっとおしゃれなお話は、なんか性分じゃない。かといって太宰治とか大御所の奔放さには我慢ならない。いらいらするのだ。共感出来ない。全く迷惑をかけ過ぎだ。

最も好きな人は井伏鱒二だ。ひょうひょうとしているがどのお話も物事の核心をついている。真実味が溢れている。娘達が夏休みの読書感想文に困ると私は井伏鱒二の短編集の中の短い話を読み聞かせたものだ。釣りの話とか、山椒魚の話とか、あったな。物語が巧みだから、娘達は単純なあらすじの中にも人間の抱える普遍的な苦悩を容易に読み取った。そんな若い感性に私は新鮮な感動を覚えたものだ。

私小説が好きである。田山花袋葛西善蔵嘉村礒多。一時期この時代の私小説にはまった。特に嘉村礒多は大好きだ。強迫神経症で、対人恐怖症でありながら、ギリギリな感じで自分を達観しその無様さを臨場感溢れるタッチで綴る。今だったら三谷幸喜やつかこうへいに通じる、ちょっとした味わい深い悲喜こもごもに満ちている。こんどこそなんとかしようよ!そこ、頑張ろうよ!。いつしか主人公に熱いエールを送っている自分にはたと気づくのだ。内容は暗いのに読後感は悪くない。不思議な作家だ。

私小説ではないが、「その木戸を通って」は山本周五郎の短編だ。新潮文庫「おさん」に収録されている。この話は興味深い。ある日主人公は見知らぬ女性を自宅の庭先で保護する。おそらく解離性遁走かと思われる。記憶障害の描写が辛い。山本周五郎って実際に会ってるんじゃないかなと思う。謎の女は何処から来たのか。置かれた状況で自制と忍耐を示し続ける彼女のその前向きな実直さは次第に周囲の人々の信頼を得る。主人公の武将が彼女にすっかり心酔していく下りは何度読んでも辛い。結末を知っているからだ。解離は残酷だ。山本周五郎のリアリズムはハッピーエンドを許さない。彼女はある日、失踪したまま、帰ることはない。いなくなってしまうのだ。人は失われたものを強く求める。どうしようもなく儚い存在というものがある。そして私達は求めることを許されているのだ。読むたびに気持ちがぎゅっとなる。何かが目覚める。大事な何かだ。それを感じたくてまた読んでしまうのだ。

その木戸を通って立ち去っていった人や下手なやり方ですれ違い、別れ別れになった人がいた。まだまだ先は長いよ。あきらめずに熱い心を取り戻したい。情熱の真っ赤なバラを〜、という歌がありました。

バラは白バラが好きなんだけどね。