虹の彼方へ

猫は雄と雌の2匹飼っているが、雄の猫が最近親密である。まっすぐに見つめてくる。右前足の肉球を顔にむぎゅっと押し付けてくる(なんか汚ない)。結構長文の猫語で執拗にメッセージを送ってくる。同一のキーの単語もしくはセンテンスであることはわかるが猫語の言語体系を掴むまではいかない。私はうなずいて雄猫をよしよしと撫でる。今日も理解無き和解である。

いつかインタビューで、ブルーハーツ(今はクロマニヨンズ)のヒロトがディズニーランドへ行った時、感激の涙をこらえ切れなかったと言っていた。彼のパフォーマンスは独特だ。彼は感激屋さんなんだな。たぶんね。実は私も1度だけディズニーシーでドナルドダックと目が合ってわあ〜っと熱いものが込み上げてきて、はらはらっと泣いてしまったことがある。ドナルドがママに視線を送ったってどうしてわかるの?と娘たちは笑ったが、嘘じゃない。妄想じゃない。確かにドナルドは私に挨拶を送ったのだ。

私は実はディズニーがあまり好きではない。アナ雪だって親族のほとんどが観て、良かったとしきりに促す中で観にいくことはしなかった。ディズニーはもはや大人向けと言っていいかもしれないが総じて子ども向けとされるものが私は嫌いだ。

DIDは脳内に子どもの人格を有する。私もそうである。一般的には怖いよと泣いたり、あどけない表情で片言のやりとりをしたりするらしい。しかし私の中の子ども人格たちは全く違う。彼らはおよそ子どもらしくない。

まず彼らは黙りこくっている。ボロボロのクマのぬいぐるみを抱いて頑なに一点を見つめている女の子がいる。アイコンタクトすら取れない。

多動でピョンピョン跳ねている子。男女の区別がよくわからない。先の尖った靴、くるくる金髪、青い瞳。遠くから眺めるだけで精いっぱいだ。

泣きはらした顔で睨みつける子や、全身ずぶ濡れで意識が朦朧となっている幼児。

彼らはてんでばらばらだ。誰も何も言わないし、泣いたりすることも一切ない。止まっている。時間も活動も。

それら全ては人格というより記憶の一場面に過ぎないのかもしれない。人格の中にはusaoやelleやfridayのように器用に振る舞う者もいる反面、大多数には協調性が無い。しかしむしろそれで脳内はバランスが保たれている。

DIDの治療はむつかしいと思う。カタルシスとか言うけれど解き放つなんて恐ろしいと思うのだ。もちろん治療を始めた当初よりも今はずいぶん安定しているのかもしれない。だけど数式を解くようにはいかない。人間の感情はそんなに単純なものではないからだ。

動物のように生きられたらいいとよく思う。こんなことたぶん誰にもわかってもらえないと思うが、動物はきっと無私の境地で生きている。訳はわからないけど、動物園や水族館でただ生きるという作業に打ち込む動物達の存在に私はエンパワーする。牧場で役割を与えられた牛や馬を見るとほっと安心する。

ディズニーについて書いていたんだよね。小さい頃にオズの魔法使いという映画を観た。白黒だったな。脳みそが欲しい案山子、心が欲しいロボット、勇気が欲しいライオン。うちへ帰りたい主人公の女の子はできそこないの友人たちと旅を続けながら強くなっていく。そんな話だ。

「虹の彼方へ」という曲が流れる。できそこないの私の友人たちはめいめいの思いでそれぞれの空を眺める。たとえ多くを失っても支離滅裂でも安心なのはそこには暴君がいないからだ。

考えてみればディズニーランドやディズニーシーは徹底した顧客サービスで満ちていた。

うん、そうなんだよ。ドナルドダックは本当に私を見て手を振ったんだよ。

あれは中に人が入ってるんだよー。

まあ、そうなんだけどね。