聞かせてよ

約一ヶ月ぶりにジョギングを再開した。たった一ヶ月休んだだけなのに今日で3日走って筋肉痛がMAXだ。

人間の腰は椅子の様な構造をしているらしい。腰に負荷となるのは実は座った姿勢で、歩いたり走ったりしている間の負荷はそれほどでもない。ただしこういうのはおそらく全身の筋肉が効果的に働いているという想定でのみ実証されるんだろうね。とにかく筋肉痛はがむしゃらに突き抜けるしかない。

今日はイヤホンでランダムに音楽を聴きながら走った。

生ゴミの黄色いビニール袋を両手に下げたおじさんに挨拶しながらブルーハーツの「リンダリンダ」を聴く。発車して行くバスを見ているイヌを連れたおばさん。スピッツの「初恋に捧ぐ」。街の景色もなかなかよい。

40分強走ると4分の曲を10曲聴ける。

「聞かせてよ」はスピッツの曲。今日3キロを過ぎた辺りで始まった。新聞屋さんの看板の下で配達員達が煙草をふかしている。軽く会釈するとお疲れさんと声が返ってくる。

古いシャンソンに「聞かせてよ愛の言葉を」というのがある。私の母はシャンソンが好きでよく鼻歌で歌っていた。この曲は日本語のやつもいい。

偽りの言葉と知りながら、で始まる、黒柳徹子の訳詞が大好きなのだが残念ながら音源を今は持ってない。

シャンソンは鼻歌風に歌っているやつが好きだ。

数日前からDIDの過誤記憶についてずっと考えている。

私の両親は私への虐待については概ねあっさりとした反応だった。私の発病のころに私の従姉妹が自殺をした。母はその時「死にたい?」と私に尋ねた。私は黙っていた。

虐待の記憶は抱え込んでいるだけでも十分辛い。それを第三者に伝えるのはよっぽどのことだ。被害者と加害者という二元関係では括れない記憶も相当ある。加害者の被害現場を目撃して自分の中の加害衝動に自分の良心がやられているという複雑な傷もある。体の傷がひととおりではないように、ひとつひとつの記憶は壊れものを扱う様に、丁寧に見ないことにはあっという間に巷の噂にあるような紋切りの記憶に変わるだろう。紋切りが楽だというザルのような脳みその人にはDIDは近寄らない。

正直脳の中は嘘がいっぱいだ。嘘は言わば闘いの防具だ。DIDの人生は自分への嘘で成り立っている。嘘を承知で100%包み込むようにしなければ辛い記憶の発掘は上手くいかない。そしてDIDは誰かに疑われることに弱い。当惑され、狼狽されてしまうだけでその弱い心はピタッと閉じる。

虐待が悲しいのはそこに悪意があるからだろう。悪意が手に負えないのはそれが保身だからだろう。悪意は人間なら誰だって持っている。たとえばどんな大義名分を掲げたところで悪意のやりとりは戦争と変わらない。心の傷は双方にダメージとなるからだ。

やっつけてやり込めてせいせいするか。すでに満身創痍なのだ。どうしても許せない一言があるから?許せないのは言葉ではなく悪意だ。謝罪してくれれば気が済む?そもそも誠意があるのなら疑うことなどしないはずではないか。

DIDは聖者を目指すのか。そうかもしれない。私が私の中の傷付いた人格を癒すつもりなら私は優しくならなければならない。疑うことをしないで、その出来事を裁かないで。その記憶を共有するのはそれを捨てるためなのだと、嘘も一緒に葬り去るためなのだと。

聞かせてよ、と。

そして吐き出せば楽になるなどという嘘はつかない。