ルージュの伝言

角川書店編「季寄せ」は良い本だ。短歌よりも俳句、俳句より自由律俳句。渥美清は山頭火のドラマのオファーを受けていたそうである。もろもろの事情で実現しなかったそうだが観てみたかったと思う。

「季寄せ」はいろいろ出ているが角川のこれが良いと思う。サイズも情報量もちょうどいい。俳句を時々詠む。作り始めると楽しくなって止まらない。埼玉時代イケアで黒板を買った。俳句というのはパズルに似ている。五七五のいずれかがまず決まる。黒板に書く。たいてい5つかそれくらいの俳句を同時に進行させる。

歩きながら、仕事をしながら、作成中の俳句の情景を絵を描くように完成させる。絵が完成しても俳句の完成はそこからだ。言葉の選択に「季寄せ」を使う。

この順番は大事だ。絵が出来ていないのに「季寄せ」をぱらぱらやると脳内はフラッシュカードのようになる。「季寄せ」を調べるのはもっと楽しい。ぴったりくる言葉にたどり着くまでの道のりは遠い。しかし絵はある。言葉は出会いを待っている。

たったひとことだが選ばれた言葉の背後には嘘のない思いがある。何年たっても私の作る俳句は稚拙の域を出ない。感動しがち、小さな、狭い世界で生きている。それで構わない。わかりやすくていいではないかと開き直っている。

山頭火とは種田山頭火のことだが、なかなか真似できるものではない。

 

なかなか死ねない彼岸花さく

歩きつづける彼岸花さきつづける

 

山頭火という存在は、彼はもちろん人間なのだが、憧れたり、真似したりするものでないだろう。彼もまた必死であった。生きづらくあった。手の中に入ってしまう一冊の文庫本の山頭火。産まれたからには生きるのだ。見たり聴いたり。考えたり味わったり。ええ、貴方からわたしは励まされていますよと彼と握手をしよう。

さて、「ルージュの伝言」は荒井由美の歌である。4歳の孫がどういうわけかこの歌が大好きだ。不条理な男女の機微を歌ったこの歌で4歳が踊っている。「ルージュの伝言」の季節はいつか。こんなことを考えるのも楽しい。

 

 

夏草やベースボールの声近し

駐車禁止ひとの背丈の夏ヨモギ

自転車ですいすい夕日通りぬけ

 

 

今朝は夏に作った俳句を読み返している。

いつからともなく、どこからともなく、秋が来た、と山頭火も詠んでいる。

秋の絵を描こう。

描くと言っても脳の中でのことだ。