小説 丘の上から ①秋の章 3

眠れない夜の暗闇が視界を歪めていく。うつらうつら浅い眠りで見る不可思議な夢に動揺して、僕は激しい動悸とともに目覚めた。なにかに誘われるように木のウロを飛び出し、夜の森を駆け抜けた。口笛のような奇妙な音。風が吹いていた。木々は落葉をはじめていた。うっすらと赤い月明かりに照らし出されたこの黒い森に僕は見覚えがない。

なぜ僕はここにいるのだろう。

ふたたび動悸がして蒼い夜の空を見上げた。バランスを崩し、僕は枝から転げ落ちた。

 

僕はいつしかペレットを普通に食べられるようになった。紙袋のペレットが無くなるとジョージのところへ行った。ジョージの住むログハウスは森の北のはずれにあり、僕の住む木のウロからほんの数百メートルしか離れていなかった。元気な時にはひとりで行くこともあった。ペレットの紙袋をジョージは木のウロまで運んでくれた。 ログハウスの北側のダケカンバの林を抜けたところに小さな池があり、桟橋にペンキのはげた水色の手漕ぎボートが太いロープでつながれていた。

ペレットを全部食べるという約束でアーモンドとカシューナッツは解禁となった。僕は午前中をずっと木の上でフライデーを待った。フライデーが歩いてくるのを木の上から見るのが好きだった。フライデーが下まで来ると、僕はダイビングして彼を驚かせた。それから僕らは倒れた老木に腰掛けてこもれ陽を浴びながらあれこれ話すのだ。そして僕はフライデーが持って来てくれたアーモンドをひとつ取り上げ、両手に持つと半分に割って左右のほお袋に詰める。右、左。またひとつ。右、左。その次はカシューナッツだ。割って、詰める。割って、詰める。

フライデーは森について、それから森の外の世界についていろんなことを話してくれた。僕はフライデーが海について話すのを聞くのが大好きだった。どうやらこの森の西側には広々とした海岸があるらしい。フライデーは海の話をする時決まって頬づえをついたり、空を見たり、足元を見たり落ち着かなくなる。その海は海岸のすぐ向こうでガクンと深くなっているから打ち寄せる波がいろいろな変わった形になるのだという。強い風が吹くとね、フライデーはそういうとくちびるを軽く咬んだ。風の海はゴウゴウとものすごい音を出すのだという。波が多くなるんだよ。それが大潮の朝だったりすると大変さ。泡ぶくの波頭がうねってさ、こーんなに高くせりあがる。フライデーは短い右腕を伸ばした。波は反りたって巻きあがり、そして砂浜に近づくと大きな音をたてて砕け散る。波は次から次からやってくる。海岸では止むことなくそれが続くのだ。

(スラッピーだ)

フライデーはそういうと腕組をしてため息をついた。フライデーは暇さえあれば海岸へ行っているようだった。

ある日僕は思いつきで木のてっぺんまで駆け上ると、西の方角に目を凝らした。そうすればひょっとしてこの場所から海が見えるかもしれないと考えたのだ。しかし残念ながら海らしきものはなにも見えなかった。次の日僕はそのことをフライデーに話した。フライデーは少し考えて、スズカケの木が一番高い、と言った。僕たちはその足でスズカケの木を目指した。巨大なスズカケの木は森の真ん中あたりにそびえたっていた。僕は躊躇せず一心不乱に登った。高い。途中で下を見るとフライデーが心配そうな顔で見ていた。息が切れる。寝ていないからだな。僕は落ちたら死ぬぞ、と自分に言い聞かせスズカケの幹をさらに上方へと駆けのぼった。

てっぺんに着いた。

足をふんばり、僕は西を見た。遠くのほう、木立が途切れたその先に空と海とを分ける水平線が見えた。もっとも僕は水平線なんて言葉は知らない。あとでフライデーに教えてもらったのだけれど。海は考えていたよりも白くて、水面はキラキラと輝いていた。フライデーによれば海はこの時凪いでいたらしい。

海を見たかったはずなのに、僕は海よりもむしろ空に感動していた。僕はこんなにも大きい空をいままで見たことがなかった。空はうすい鉛色で、東のはずれが西のはずれとつながっている。落ちないように気をつけながら僕は何度もぐるりと一周しては深呼吸し、鼻の穴の膨らむ感じを確かめた。

木から降り、興奮している僕を見てフライデーはなにかを考えていた。鳥もいない、虫もいないこの奇妙な森のことを、僕は好きになり始めていた。

森のはずれまでフライデーを送ると、彼はまたねと右手を挙げた。僕は木のウロに戻った。それから干し草のベッドに横たわり、あの360度のスカイビューを繰り返し思い出しているうちになんとなくうとうととふたたびいつもの闇に包まれていった。