小説 丘の上から ①秋の章 9

丘の上のマリの店に着いた時にはもう日が暮れかかっていた。

マリの店というのはカフェか何かのようで、中には2人の客がいた。

パトリックジェーン。彼は向かって左側の奥のコーナーのボックス席の壁側に座り、うさおを見て陽気に手を振った。彼は中国のなんとかスーチョンという紅茶しか飲まない。うさおは彼のためにこの紅茶をわざわざネットで取り寄せている。三つ揃いのグレーのスーツ、天然パーマの金髪で、僕を見て細い目で笑った。

もう一人はホウドンジャ。うさおが名前を言った時、僕にはそれが名前なのかなんなのか、ちょっとわからなかった。彼女も日本人ではない。彼女はとても忙しい。白いシャツにジーンズをはき、胸元と右手首には革ひものアクセサリー。真剣な表情でノートパソコンになにかを打ち込んでいる。

僕はカウンターに通された。

カウンターはその向こうが小さなキッチンで、ガス台や流しのようなものが見えたがキッチンには何も置いてない。カウンターの上にも物は無くたったひとつ、ガラス製のシュガーポットが置いてあった。

うさおはカウンターの脇にある扉の中に入ったまま、なかなか帰ってこなかった。

店内はホウドンジャがノートパソコンを打つカチャカチャという音、それからよく耳を澄ますと何か低い、人の声のような楽器が奏でる音楽。

僕は目を閉じてその音に集中した。僕はそのメロディーを知っていた。それは美和のお気に入りのCDだったのだ。音楽好きの美和はこのCDを取り出して……。

「来たわね」

エルだった。黒いハイネックの長袖を肘までめくり上げ、オリーブグリーンのサロンを付けている。エルが台下冷蔵庫から出したお皿にはヒマワリの種が山盛りだった。お腹が空いていたので、僕はヒマワリの種に飛びついた。種はひんやりと冷えている。殻を剥き、中身を頬に詰める。剥く、詰める。右、左。ヒマワリの種を食べるのは久しぶりだった。

チェロだ。

僕は思い出した。それがチェロだと判って、そうしてだんだんと旋律がはっきりしてきた。

『ドュプレ、ジャクリーヌ・ドュプレ。大好きなの、上手いわ。チェロを弾いてみたい。夢なの。わたしチェロを習うのが夢なの』

美和は話していた。美和の向こうには男性がいる。美和と男性は二人並んでソファに腰掛けている。美和はその男の肩に頭を乗せていた。僕とジェシカは何故だかわからないが高速でバク転をし続けた。美和の緊張が伝わってくる。リスはバク転をしてストレスを発散するのだ。

「なんかフライデー、また壊れちゃったみたい。今ジョージを呼んだところよ」エルが言った。僕は持っていたヒマワリの種をお皿に戻した。

「会います!僕会います!どこですか?どうやって行きますか?」

僕はうさおがさっき入っていった扉に向かって走り出した。

「待ってよ!ジョージに聞いてみないと。今あいつの側に行くと危ないわ。あんたブッ飛ばされちゃうわよ」

僕は扉の前でエルを見た。エルは首を横に振っている。その時扉の向こうで誰かが階段を下りてくるトントンという音がして扉が開いた。フライデーが立っていた。ジャケットを着ていない。普通の茶色いライオンラビットだった。僕はダッシュして胸のあたりに飛びついた。フライデーは無表情のまま、僕を抱きしめた。

うさおに促され、フライデーは窓側の席に座った。

「調子悪いんだって?」僕は言った。

(悪かったよ。僕が海の話をし過ぎたせいで、君が木から落ちちゃったんだ)フライデーは僕の方を見ないで窓の外の、もうすっかり暗くなった丘の空を見ていた。

「君のせいじゃないさ。それにほら僕はなんともない」僕は両手を広げて見せた。フライデーは僕をじっと見てそれからくっくっと笑った。

(ほっぺたに何か入ってる)

僕は嬉しくて何度もうなずいた。

「誰も悪くないよ」そう言ったのはパトリックジェーンだった。「誰も嘘をついてないし、何かを企んでるわけでもない」パトリックジェーンはカップとソーサーを持ってテーブルを移動していた。

それから僕とフライデーはパトリックジェーンがおかわりした紅茶をかわるがわる舐めた。それは特別な香りのするお茶だった。彼はニコニコ顔で立ち上がり、僕とフライデーを交互にハグした。

フライデーはエルが怖々差し出したジャケットに器用に腕を通し、ごめんよ、というようにエルを見た。エルは馬鹿よ、と言いながらカウンターの向こうへ行ってしまった。

ジョージがやってきて宴が始まった。

「すみません! 音楽を変えないでください!」僕はエルに頼んだ。

「パラディスのシシリエンヌ。ちょうどいま美和もそれを聴いてるよ」

うさおがそういうとそこにいた全員が顔を見合わせて息をのんだ。

「話があるんだ。みんなに聞いて欲しいんだ」うさおが言った。(つづく)