君塚良一「容疑者 室井慎次」

久しぶりにBOOK OFFへ行った。フリスビードッグの育て方の本、ロードバイクの雑誌、コーギー犬の雑誌を買った。

もう一冊、買おうかどうか迷いつつ立ち読みでかなり読んでしまった本が君塚良一のエッセイだ。君塚良一とは「踊る大捜査線」の監督である。私は君塚良一の創る映画が好きなのだった。エッセイを手に取り、その驚きの内容に思わずその場でええっ⁉︎と声をあげてしまった。

その昔(最近その昔のネタ多くない?)「欽ドン」というラジオ番組があった。投稿(当時はハガキ)のバカ噺を欽ちゃん(萩本欽一)が評価する。バカ受け〜、やや受け〜。集英社の提供だったから、ジャンプ賞とか明星賞とかあったな。懐かしい。私は中学生だった。

こんなのがあった。

お母ちゃんと子どもの会話。お母ちゃんもう靴下がないよ!まだ手袋があるでしょ!

‥‥‥なんか笑えるのだ。笑えない?

その番組内にパジャマ党という人々がちょいちょい登場した。どうやらそのラジオ番組の作家、プロデューサー等、スタッフのことらしい。萩本欽一を支えたブレーンだ。欽ドンが大好きだった私は、こんな面白い番組を作るスタッフパジャマ党に強く憧れた。ところがだ。先日BOOK OFFで立ち読みした君塚良一のエッセイに「僕はパジャマ党の一員であった」とあるではないか。

君塚良一パジャマ党

これは恋人がサンタクロース?くらいの衝撃である。

君塚良一の「踊る」のスピンオフ映画のひとつに「容疑者 室井慎治」がある。私はこの映画が好きだ。定期的に観る。なんで好きかはよくわからない。キースジャレットが好き、というのもある(劇中にキースジャレットが流れます)。

関東に住んでいた時、知り合いに映画マニアが居た。この映画が好き、と話したところなんとその知り合いは初回限定版を買っていた。ボーナストラックに監督の君塚良一、プロデューサーの亀山なにがし(忘れた)の2人が映画を観ながらあれこれ雑談する、というへんなDVDが付いていた。

私は映画が好きだったが当時は映画云々と討議をするということはほとんどなかった。むつかしい話は苦手だ。映画は観るもの。楽しむもの。うんちくではない、そんな風に感じていた。

ボーナストラックの君塚良一は易しい語り口でぽつりぽつりと語る。あー、このシーンはさ、あのほら、あの映画の真似なんだよ、オマージュねオマージュ。さりげなく笑いつつ語る。

よくよく考えてみたら私が「容疑者 室井」を好きなのもそんな理由だ。あー、このシーンあの映画のあのシーンを思い出すなあ、とかいう感じ。ここはもっとこんな風にしたかったんだけどさ。君塚良一は語り続ける。ボーナストラックは癖になる面白さで2回観た。

知り合いにDVDを返す時、私は普段ならあまりしない会話をした。

私、あの枯葉がバアーって舞い上がるシーンが好きなのよね。

すると知り合いは言った。

あー、あれはCGだよ。

もちろんメーキングを観たから私はそれを知っていた。

そうなんだよね。CGだって知ってますます興味深く思ったんだよね。なんか妙に脳にアタックして来るんだよね‥‥‥。

いつしか私はその知り合いと映画製作とは何か、映像が脳にもたらす効果の目指すものとは何か、長々と語り合っていた。

楽しい時間だった。

琴線に触れるという言葉がある。シンパシーを感じたり、深く共感して心を動かされることだ。しかしそれは映像が直接人に及ぼすものではない。映像がそれを観た複数のヒトに想起させる、ある共通の感覚の交流の成せる技であろう。ヒトの心が媒体となる。

全くの他人同士がとあるワンシーンを味わい観たことで、それはたったの一瞬なのだけれど、鮮明で真実のひとつの一致した心象風景を共有するのだ。

その場合、映像は作り物で構わない。

人間ひとりひとりは年齢も性別も育った背景も好き嫌いも異なる。それはそうでなければある意味恐ろしい。画一的な集団はなにかしら欺きの側面を持つからだ。

餅と雪と雲と牛乳は白い。

空と海とソーダ水と矢車草は青い。

映画による景色の共有は、実はとてもシンプルな暮らしの中での景色の共有の再現なのかもしれない。

「容疑者 室井」を観て私は必ず泣く。泣きたくて観るのかもしれない。

人間の一生にはその時には手も足も出ない過酷なワンシーンが訪れるものだ。そしてそれはありふれている。それは誰にでも起こる。

だけど逃げないでその場所で耐えることも出来るのだ。真実から目を背けない。全力で踏ん張る。

「容疑者 室井」は地味な映画だ。そして君塚良一パジャマ党だった。

強くしたたかに、個々の鉄壁の歩みを続けるのには誰かの、そうそう、そう思うよ、という共感が欠かせない。

映画はほんのきっかけにすぎない。