夕焼け

生まれて初めて食パンを焼いた。長女と三女がパンを焼くという。5歳も一緒だ。長女がフォカッチャ、三女はバターロール。それで私は食パンにした。

usaoは食パンの型も持っていた。レシピは最近買ったエイ出版の本に載っていた。

捏ねる捏ねると言う5歳に少しまとまり始めた生地をちぎって分けた。見よう見まね一生懸命捏ねている5歳にそうじゃない、違う、と私は手厳しい。ママ、なんか怖いよ、と三女に諭される。仕上がりにばらつきが無いように途中5歳と生地を交換する。

楽しい上に美味しい。パン作りは数日続いた。5歳はみるみる上手くなった。小さなからだぜんたいでパン生地を押しつぶしていく。パン屋さんて大変だね。大変じゃないよ。パン屋さんなら機械で捏ねるはずだ。

一次発酵は50分。誰の生地が1番膨らむかというなんだかわからない勝負だ。そのあいだ私は5歳と近所の公園へ。雨が降っていた。

公園は結構広い。5歳はポンチョ。雨の中を走り回る。傘が邪魔だったけれど私も後をついて走った。

5歳によれば雨の日の公園は特別らしい。遊具たちは今日は休みですよ、と戸惑いつつもやって来る子どもをひときわ歓迎するのだそうだ。なるほど雨ざらしの滑り台とブランコが、走り回る5歳と私を見ていた。

「夕焼け」はスピッツの曲だ。usaoはスピッツが好きだった。usaoはスピッツのマサムネとジャッキーチェンを足して2で割ったような顔だった。子どもが好きで散歩が好きだった。

交代人格の消滅はお別れではない。usaoはかたちを変え今も脳内に存在している。5歳が私を見る。きっと私の中のusaoを捜しているのだ。

ここ数日音無しで過ごしていた。「夕焼け」はへんな曲だ。夕焼け空の郷愁もなければ夕焼け雲の赤みたいなものもない。歌詞ではない。君のそばに居たいと歌いあげる。

誰かのそばにいることがそんなにも、歌いあげるほどに重要なことなのかと私は聴く度に考えたものだ。

そうしたいというならそうすればいい。人間は自由なはずだ。そばにいるということの意味は様々だ。そうさ。むつかしいことじゃないよ。

治療は有機的、生産的でなければならない。

そばに居たい。だから消えた。そうなんだろ?

返事はない。

夜「壬生義士伝」を観た。

本当の強さは柔和であることだ。弱い自分を知っている。そして願う心は決して恥ではない。