小説 丘の上から 冬の章 1

ここ数日の冷え込みでマリの店の東側のエリカが咲き始めた。うさおはエリカのことを時々ヒースと言った。ヒースという言葉の響きは丘の上に時々やって来る冷たい北風によく似合う。うさおによればヒースというのは草で、荒れた貧しい土地に生え広がっているものらしい。赤い小さな花をつけたエリカの低い樹々がマリの店をぐるりと取り囲んでいた。その日うさおはいつまでもエリカを見ていた。

冬眠をしないリスは冬のあいだ何をして過ごすのだろう。僕は春に生まれたし、死んだジェシカ以外リスには会ったことがない。それでも僕は退屈ではなかった。

マリの店には毎日誰かがやって来る。

迫田光治を説得した功績を認められたローザは軟禁を解かれ、時々食材の調達にお店にやって来た。エルは相変わらずローザを怖がって失神してしまう。失神して倒れているエルを見るのが僕はもっと怖いのだがうさおもジョージもパトリックも次第に慣れていく。ローザは決まった時間にやって来る。うさおはローザのために紅茶と小麦粉、コーンミール、油(菜種油だったりオリーブ油だったりする)を紙袋に詰め始める。エルはパトリックの隣に腰掛けて倒れる準備をした。

ジョージは数日ごとに軽トラックに乗ってやって来た。薪ストーブの薪を運びこむのだ。薪は2年間乾燥させる。ジョージは新しく割られた岳樺の薪を運び込み、1包みずつ積み上げていく。これは簡単そうに見えてむつかしい、ほら、薪の断面をこんな風に美しく積むにはちょっとした技術が必要なんだ。ジョージは積み上げられた薪を眺めて嬉しそうに何度も頷いた。

ホウドンジャがうさおにスタッフミーティングを提案した日、僕とフライデーはローザのうちでローザの作ったアイスボックスクッキーを一緒に食べる約束をしていた。それでローザはココア生地を使った市松模様のクッキーを1瓶抱え、店にやって来たし、ジョージは新しく買ったフレンチプレスの珈琲メイカーをエルに見せるために持って来ていた。そのせいかエルは失神しなかった。

ホウドンジャの話はみんなを不安にした。

僕もびっくりした。美和と迫田光治は仲良く結婚の約束をしたのだとばかり思っていた。

「どういう事ですか?どうして美和は死んでしまいたいなんて考えるんですか?」僕は尋ねずにはいられなかった。

「わからない」ホウドンジャは言った。

「少なくとも迫田光治は悪く無いはずよ。だって美和のために自宅を出て美和と一緒に暮らし始めたのよ」ローザが言った。

「ストレスなのかもしれないね」うさおが言った。

「ストレス?迫田さんがなんか言ったんですか?」僕は尋ねた。

「幸福感」ジョージが言った。「強い幸福感や安心感もまた青斑核にアタックするんだよ。美和の脳の障害は生後間も無くの脳の発達が関係している。愛着障害さ。だけど発達過程にあると考えるなら必ずしもこれは悲観すべき状態とは言えない」

「でも弾みで」うさおはホウドンジャを見た。

「わからないの。これがなんなのか。もう辞めたいの。何もかもを辞めたいの」

「でもドンジャさんは子ども産みたいって言ってたじゃありませんか!」僕は声を荒げた。とはいえ所詮小さなリスの声だ。僕の訴えを打ち消すようにエルが言った。

「産まない方がいいのよ。少し考えればわかることよ。この世の中は残酷で大人は馬鹿ばかり。母親になる?母親が何よ。美和は思い出したのよ。あの子の母親は何をした?迫田光治だって1度逃げてるのよ。また逃げるに違いないわ。そうでしょ!」

うさおは黙っている。パトリックは立ち上がりエルを優しくハグした。エルは声を出さずに泣きはじめた。

誰も何も言わなかった。

薪ストーブがパチパチと音をたてていた。