fridayusaoのブログ〜丘の上から

統合失調症でDID、読書と音楽鑑賞の日々の徒然。

ザ・ブルーハーツ「泣かないで恋人よ」

ハンフリー・ボガートはハメットの「マルタの鷹」のサム・スペードだが、私の脳内のフィリップ・マーロウハンフリー・ボガートだ。

「長いお別れ」を手に取る。好きな場面を飛び飛びで読む。留置所から出たマーロウがロニー・モーガンに車で送ってもらうシーン。映画は観てないからあくまでも脳内での架空の情景だ。

その次はカーン協会なる怪しげなオフィスの応接室を2足で横切るジョージ・ピーターズ。壁にかかっている絵を外して盗聴マイクの接続を切る。

このロニー・モーガンとジョージ・ピーターズはいつしか私の脳内でひとりの人格となった。マーロウには知己がいる。若かった私は自分もいつかこんな風に友人を助ける機会があったら、と空想したものだ。

17歳の時私はひとりの友人がいた。彼女は変わり者だったが頭が良く有名大学へ進んだ。遠方の彼女とのやりとりは手紙だった。私たちはやりとりに事務用の茶封筒を使った。何年かして初めて彼女の部屋に泊めてもらった時、彼女は私からの茶封筒を10通ずつ白い紙ひもで束ねて引き出しにしまっていた。私が何度目かの自殺未遂で凹んでいた時、小包でモンブランの万年筆を贈ってくれた。死んでもらっては困る、と一行、端整な字で書かれた手紙が添えられてあった。

ある時は不都合が重なり金を借りたこともあった。彼女は騒がしいカフェの丸テーブルの端に万札入りの茶封筒を微笑みながら置いた。その晩私の部屋に泊まった彼女は借金のかただと言って私の服を何着か持ち帰って行った。高かった三宅一生のスカートも金は返せなかったからその日からそのまま彼女のものになった。

駆け落ちして来た、と夜中に彼女から電話があった時、私はすでに3人の子持ち主婦だった。主人の車で最寄りの駅へ迎えに行くとケリーバッグひとつでニコニコ笑う彼女がそれらしい男とロータリーに立っていた。

彼女の離婚手続き等もろもろのあいだ彼女は1ヶ月ほど私の家で娘たちの子守りをしてくれた。

真夜中過ぎ、酒に酔ってふらふらふたりで川沿いの道を歩いていたら夜空に動くものを見た。なんだろう。ふたりして見上げるとそれは流星群だった。流星というものを私はその時生まれて初めて見た。私は彼女の好きなものを幾つかそらんじて言うことが出来たし、彼女は私の失敗を幾つも誰にも言わずにおいてくれていた。

「助けて」夜中の電話は彼女だった。生憎主人は出張で留守だ。私は近くに住む弟をたたき起こし車で二時間ほどの彼女のアパートまで弟の車で駆けつけた。舗道に立つ彼女はいつものケリーバッグとウールのコート姿だったが眼鏡が無く、顔の血をハンカチで覆っている。夫から殴られ鼻を切ったという。車に乗るよう指示すると背後から男が彼女の肩を掴んで乗せまいと力ずく彼女を道路にひき回した。

咄嗟に弟が車から降りて男を咎めると一発、弟が起き上がるやまた一発、今度は腹だ。倒れている弟を今度は男が蹴り上げる。

もう警察に通報したと私は男に嘘をついた。男の動きが止まる。動いちゃダメ、私は弟を制した。殴られるままの方が警察での話が速い。被害者は彼女と弟。ふたりとも無抵抗だ。

行こう。私は彼女の肩を抱く。すると彼女は私の手を振り払い少し離れたところで立ち尽くす男の前に進み出た。私も走り出す。私は男を睨みつけた。女を殴る最低な奴を今夜こそ警察に引き渡すのだ。するとその時彼女が私の目を見て言った。

もういいの。

私は戸惑った。

もういいの。彼女は繰り返した。私は収まらない。再び彼女の肩を強く掴んで車に乗せようと引き寄せた。

彼女が私に言った。

帰って!お願い、帰って!

彼女は泣きながら男の手を取り私に帰れと懇願し始めた。

私は数秒間彼女を見つめたが弟を連れ家に帰った。弟は口から血を流していた。弟は僕は一発も殴ってはいないと繰り返した。警察に行くという彼を私はまたもや制した。

助けて、電話での彼女の声を脳内で再生しながら私は弟にティッシュを手渡す。

お願い、帰って。厄介な脳はなかなか記憶を消去出来ない。

私は彼女を助けてあげられなかった。いや、あの時彼女は男を選んだのだ。彼女のアパートに踏み込んで男を警察に引き渡すことももちろん出来た。そしてそれが出来たのはあの夜だけだったのかもしれない。

あれからもう夜中の助けてという電話はない。今はもう幸福に暮らしているのかもしれない。彼女とはその後何度かやりとりはあったが実質あれが最後となった。

私は男ではないからタフである必要はない。フィリップ・マーロウなどじっさいこの世界のどこにも存在しないのだ。何故だろう。あの時私は素直に泣くことが出来なかった。いや本当に泣きたかったのは殴られ損の弟だ。

真面目でおおらかで大胆、笑顔が可愛くて賢いけれど口数は少なかった。私は彼女が大好きだった。ふたりで見た流星群をけっして忘れない。

あの時忘れてきた涙を今頃取り戻している。