新潮文庫 山本周五郎「むかしも今も」

法界屋という旅芸人についての小説は皆川博子のものだったかもしれない。今は持ってはいない。さのさ節だ。さのさが先で小説は後だ。わたしがさのさをひとり口ずさんでいたのは幼児のことだ。さのさ懐かしい。

とても若い時に皆川博子を夢中で読んでいた。江戸の大火事。手鎖りで牢人となる浮世絵の絵師や彫り師たち。酒酔いたちの朝顔市。

読書の合間に息抜きの読書をするという記事を読み同じようなことをする人がいるんだなあと思った。この処少しずつ読んでいるのは東洋書林「馬と人の文化史」。知りたいのはロバのことだがどうやら馬があってのロバらしい。なにやら解せぬが致し方ない。文中にちょいちょいロバ情報がある。面白い内容に脳が沸き立つ。やはりロバだ。ロバでなければならない。演劇で言う処のバイプレイヤー、永遠なる脇役。逆説的だがそこがツボなのだからしょうがないのよね。

わたしが皆川博子に惹かれたのも彼女の取り上げる人物が常に脇へと追いやられがちな人生を歩んだからだ。史実に忠実な内容。彼ら彼女らは勝てないのだ。嘘のような不運の連鎖だ。死ぬか狂うかだ。皆川博子を手に取る気も起こらない。今のわたしには他人の不運を覗き見するほどの気力がない。

ロバは馬よりも重い荷を負うことが出来るらしい。馬よりも粗食を好むとある。そして砂漠に対応するという特質はけして利点ではない。わかりにくいことだが砂漠を好むロバは砂漠でしか生きられない。アイルランドの泥炭質の牧場で十分に生育するロバもいる。しかしその種はその場所でしか生きられない。当たり前のような話であるが繁殖改良という家畜利用の観点でロバは野性味の強い扱いにくい種であるそうだ。砂漠に道を整備し、馬や車を走らせる方が人間には楽な選択となり今や荷役を担う家畜としてのロバは消えつつある。

ロバは要らない動物なのか。わたしは動物園を訪ねる。ソマリノロバ。絶滅危惧種だ。全身が黄土色のふわふわした毛で覆われている。耳はそれほど大きくはなく、耳の先端がグラデーションになっていて黒い。四肢の先端には数本の黒い横縞がある。なんておしゃれな動物だろう。そのソマリノロバは荷物なんかは1度も持ったことはない、とわたしを見て瞬きをした。高貴な表情をしていた。わたしはいつまでもロバを眺めた。

馬やロバを家畜として、あくまでも生活に利用するという観点で書かれたこの本はところどころ難解である。わたしはどうしていつも飛躍してしまうのだろう。わたしは普通免許すら持ってはいないではないか。古ぼけた部屋に閉じこもり古ぼけた音楽を聴き古ぼけた時代の本を読む毎日だ。ロバのことはもう忘れたい。

ロバと火鉢、ジャズと江戸時代は脳内でミルフィーユのようになっている。

山本周五郎「むかしも今も」は「さぶ」の栄二が破滅する感じで終わる話だ。視力を失い夫にも裏切られた主人公の女に寄り添うのは精神遅延の職人直吉である。山本周五郎は強い願いを持った人なのだろう。若手の作家が批評を求めてやってきた時その書いたものを読み、脇役の不幸な女を主役にせよ、と強く勧めたというエピソードを読んだことがある。

強くなりたい。したたかでいたい。自分のこの弱い心が不自由だ。ベタつくような自分の感情にはもう飽きた。少し疲れているのかな。

ロバには荷物を持たせよう。わたしもまた日々を忙しく暮らすのが良いのだ。粗食がいい。そしてよく噛んで飲み込め。