アルプスの少女ハイジ

脳内が飽和していてどうにもならず夕方早くにロヒプノールを呑んで眠った。永くは眠れず夜中の中途半端な時間に目が覚める。

数日前は電車で図書館へ。朝9時から午後1時までずっと本棚を眺めては立ち読みを続ける。ひとりで図書館行くとこうなることが多い。脳内人格に公平に本棚を回らねばならないからだ。

堀田誠「ロティ・オランの高加水パン」を見たくて行ったが誰かが持ち出していて見当たらない。堀田誠の本はもう一冊あるはずだがそれもない。

長尾智子のエッセイがあった。ぱらぱらやる。薄焼きパンを焼く行程がモノクロ写真で載っている。いいな。長尾智子の本は結構持っている。「ニュースタンダードディッシュ」というわたしの好きな一冊があるがなぜかどこのBOOKOFFへ行っても必ず置いてある。人気が無いのか、いや、売れるからこそ置いてあるのだ。ほろっとして、どっしりして、ぎっちりして、でもちゃんと甘くて、めっちゃスパイシーで、とコンセプトがまとまらないままのチョコレートケーキが載っていたりする。ごろっと大きめに切った林檎をどっさりのハーブで煮ていたり。わたしはすごく面白いと思う。写真もいい。でも売れないみたい。そういえば「ペジマニア」も108円だった。「ペジマニア」は良い。でもまあガルバンゾ粉のチャパティなどは日本の食卓には無関係だろう。こ綺麗であること、写真の横に分量を記載したレシピ本であること、売れるためにこういう要素は必須なのだ。

ライカ関係は数冊ある。ライカというのは何かスタイルになっているらしい。熱すぎる内容は苦手だ。メカニック的なのが読みたかったのだが諦めてスルーする。

ポーランド映画のエッセイを探す。映画は観るものであって読むものではないが今は少し脳内が粘着テープ状態で映像をとても難しく感じる。気がつくと宮崎駿の絵コンテ集をしゃがみ込み念入りに見ていた。宮崎駿は絵が上手い。速描きだ。絵コンテが好きだ。写真も結局絵コンテではないかと思うのだ。すべては残像なのだ。

アルプスの少女ハイジの本が数冊並んでいた。19世紀のスイス人の女流作家の児童文学だが日本ではアニメでよく知られている。わたし自身は子ども時代にテレビでアニメを観る機会はほとんど無かった。本屋でのバイト時代同僚にアニメオタクの人がいて、彼が熱心に定期購読していたアニメ専門誌を1度貸してもらった時確か宮崎駿のエッセイが連載中だった。ナウシカもまだ映画化前であった。

アルプスの少女ハイジの日本のアニメはスイスでは批判的なようだ。原作はもちろん高い評価を受けている。アルムおんじの闇、ハイジの病い、ゼーゼマン家の純ドイツ的な暮らしぶり。宮崎駿たちはアニメ化するにあたりヨーロッパロケを行い原作に忠実にアニメを制作した。しかし目に余るハイジの奔放さ等スイスの人にはあまり受け入れられなかった。

しかも宮崎駿らはロッテンマイヤーさんをアルムの山へと登らせた。これは原作には無い。純ドイツ的婦人があのような格好での山登りはまずあり得ない。我慢強い彼女のことだ。愛するクララのためなら登板に耐えるくらいは何でもないことだが動物も動物臭も苦手な彼女に山羊の群れは酷であろう。

ロッテンマイヤーさんはそんなに悪い人ではないはずだ。幼いハイジに厳しくあたっているけれど子どもをしたい放題にさせるならそれはむしろ愛の無い行為である。マナーを躾けるのは普通の仕事だ。日本でもドイツでもそれは同じことであろう。

それにしても宮崎駿らは原作を超えて何故彼女をおんじやペーターに合わせたのだろう。何故彼女に山の景色を見せたのだろう。

19世紀のスイスの山暮らしは貧しく季節労働で男も女もドイツへと出たという。そしてその際には望郷の想いから鬱病になることが多く、それはスイス病と呼ばれたそうである。

ゼーゼマン家の敷地内で、母親に死に別れ、父親もいないに等しい病弱なクララをひたすらに育て上げようと努める彼女もまた病んでいたと言えるのかもしれない。宮崎駿らは合理主義の枠から出られずに苦しむ彼女に山の景色を見せ、山羊の群れに囲まれる経験をさせたかった。ロッテンマイヤーさんは山を見、山羊を感じ、何を思っただろう。

実写版ハイジを観たことがある。古い映画だ。山小屋の暗い室内。うつむくおんじの横顔、ハイジはあまり笑わない。

ボーダーは何処にでもある。人の心の感動だけがそれらを超える力を持つ。少しだけそんなことを考えた。

わたしは本棚をまた右に行く。

確かアマリア・ロドリゲスの評論があったはず。何処にも無い。カウンターに戻り検索してみようかな。いや帰ったらYouTubeで聴こう。うん、そうしよう。

わたしの中のロッテンマイヤーさんにファドを聴かせよう。

そんな考えに少し有頂天になったりしてね。