中島みゆき「時代」

福田里香「ゴロツキはいつも食卓を襲う」を図書館でリクエストして来た。kasaさんから頂いた(と言うべきなのか)YouTubeのウィークエンドシャッフルでこの本の存在を知った。フード理論三原則とな。なかなか興味深い。

食べるものを粗末にするのはいけないことだ。滅多にテレビを見ないが時々グルメ番組でレポーターがテーブルに乗り切らないほどの料理を注文し、ひとくち食べては美味しいとコメントし、次から次へと料理の味を確認するシーン。あれが苦手だ。

あれさ、あと誰が食べるの?

スタッフがこっち側に大勢いるんだよ。夫が教えてくれる。

わたしは少食だ。沢山は食べられない。ビッフェスタイルの朝食やランチも夫に言わせればわたしは勝てたことが無い。若い時ならわたしの負けを夫が取り戻すことも出来たが最近はそれも怪しくなった。

ピヨピヨさんのコメントに法善寺横丁とあり懐かしかった。包丁一本〜という歌だ。

幼馴染みのOは中学を出ると地元の駅前の寿司屋に見習いとして入った。Oとわたしは同い年、同じ幼稚園に通った仲であるが二人とも極貧の生活の子どもで、そのミッション系の幼稚園はそういう家庭の子どもを無償で引き受ける施設だった。

Oと再会したのは高校生の時である。当時わたしは青春がブロークンであり、Oもまた寿司屋の修行がちっとも続かず相当の壊れ具合、しかも我々が集い合ったのはキリスト教入門者の合宿だったから人生は痛し痒しだ。そして我々は入門が叶わなかった。その団体は男女を問わず修道士を養成する団体で合格すれば授業料はタダ、入門後は国内の修道院に住み込みで勤めることが出来る。いろいろと悩んだわたしはその道を歩む決意で臨んだのだが不合格とされた。Oも同様であった。

Oとはそれっきり会うことは無かったがわたしが高校を卒業して両親が経営するレストランで働き始めた日にOが厨房スタッフとしてそこに居た。我々は再会を喜んだ。

Oはロシア人と朝鮮人と日本人の混血で見た目はまるでイギリス人だ。いや褒めているのだ。何も喋らなければ絶対日本人には見えない。背が低くて痩せていた。瞳が青かった。

Oは勉強は出来ないが手先は器用でパフェやパンケーキを華やかに仕上げてフロア係りの女の子にも人気があった。

ジム?そう。ボクシング。Oはそう言ってシュッシュッと拳を揺すって繰り出して見せたりした。

わたしはOが嫌いでは無かったしOもわたしを近しく感じていたけれどふたりきりになるとどうもむしゃくしゃする。何かとイライラするのだ。おそらく互いに失意を共有し過ぎていたのだろう。その当時わたしのブロークンっぷりは親戚と民衆の周知のことであり、Oのへっぽこ振りもまた然りである。

え?バイク?そう。中型。Oはバイクで人身事故を起こしてその日はわたしの父のクラウンに同乗して出勤した。バーカ。わたしが言うとOはようやく笑った。

夏だった。わたしは毎日朝から夜遅くまでお店に張り付いて働いた。午後3時、Oがフロアーのわたしを呼んだ。ほれ。アイスコーヒーだった。氷無し、シロップ無し。わたしの大好きな一杯だった。

お客の途切れたカウンターでわたしは甘くない冷たいコーヒーをひとくち飲んだ。台下冷蔵庫から取り出した生クリームをOはシャカシャカと泡だて始めた。みるみるクリームは凝固する。これ逆に回すと元に戻るんだぜ。え?本当?嘘。バーカ。Oが笑いながらホイップクリームをわたしのコーヒーにボタっと乗せてくれた。

生クリームはすごく甘かった。

その夏Oはケンカをして青ぶくれの顔で出勤したり、何日も連絡が取れなかったりしてわたしの両親から何度か叱責されたのちとうとうお店をクビになった。

父が言う。あいつ作った生クリームぱくぱく食べちゃうんだよ。給料から引くぞって怒ったら辞めるってさ。

わたしはあの疲れきった午後のアイスコーヒーにOが乗せてくれた甘いホイップクリームの味を思い出していた。

バーカ。

わたしはもう会うこともないだろうOに向かってつぶやいた。

中島みゆき「時代」はOが好きだった曲である。