THE MODS〜TWO PUNKS

ここ数日昔の渋谷陽一のラジオをYouTubeで聴く。1982年。わたしは吊り橋を渡るような日々を過ごしていた。登ってきた梯子を蹴り落とし逃げるような毎日を送っていた。

「カラーに口紅」「悲しき雨音」「ビーマイベイベー」。いいなあ。懐かしい。どれもこれもわたしには少し古すぎる曲だ。リアルタイムで聴いた曲ではない。わたしがうんと幼い幼児の日々に父のラジオで聴いていたかもしれないとも考えたが、そんな時代をほじくり出すよりも、幾分多過ぎるギターのリズムのパンクバンドがこれらをコピーして演奏するのを聴くほうがずっと小気味好い。苛立ちと憧れのない交ぜとなった短い演奏。シーナ&ロケッツがコピーして時々こんなのをライブでやったものだ。

18歳のわたしが大滝詠一を知ったのは渋谷陽一サウンドストリートだった。「恋するカレン」「さらばシベリア鉄道」「君は天然色」。わたしは夢中になった。大滝詠一はいい。明るくてドライブ感がある。とにかく聴いていて楽しい。大滝詠一が大好きになり以来大滝詠一ききたさに渋谷陽一サウンドストリートは欠かさず録音した。

主人と知り合ったのもその頃だ。成績優秀でしゅんとした醤油顔(最近言わないか)、レスポールを弾いていたが音もリフも優等生。その時の会話は百円貸してだった。わたしは黙って百円玉を差し出した。

デートはTHE MODSのライブだった。当時THE MODSはレコードこそプレスしていたが少々マイナーで同じパンクバンドのロッカーズルースターズARBよりも一足もふた足も遅れを取っていた。ライブは数百人も入ればいっぱいの小ホールだったが客足はぱらぱら。黒装束の男女がステージ下で皆一様に拳を突きあげていた。

飛行機かな。ここ数日体調が悪くなりテキパキと動けなくなったわたしに主人が言う。おとといの早朝弁当を作り、自転車で畑の水やりへ行き、そのまま数キロを自転車で駅まで走った。電車で三女の家へ遊びにゆきわたしはそこでグーグー寝てしまった。激しい疲労。帰ることが出来ない。夜勤明けの主人に迎えに来てもらい駅で自転車をトランクに積み込んだ。

北海道から帰って調子がなかなか戻らないのをダメ人間になったと笑っていたが具合はますます悪くなりその夜には激しい頭痛でのたうちまわる羽目になった。

頭痛だけではない。痛みに耐えかねわたしはめそめそ泣いたり弱音を吐いたりするのだ。5月。もう何度目かの5月の頭痛だ。主人は寝ないでわたしを診ていた。わたしは声を殺して泣く。主人がわたしが自殺をしないように見張っているのがわかる。

希死念慮とセットになった頭痛が去年の5月にも起こった。左の後頭部に太めの針が時々深く差し込まれるような不定期な痛み。MRIを撮り詰まりも腫瘍もないということで後頭神経にキシロカインを皮下注射した。その後は大量の精神薬でとにかく体を動かなくする。死にたい。もう辞めたい。わたしは痛みが途切れると主人に小さく訴える。うん、わかった。主人はその都度わたしの髪を撫でる。

世の中にはもっと辛く厳しい試練に耐えている人がいる。そういうことはわかっているのだ。丁度1年前のことだ。わたしがブログを始めたのはもっと真面目にリアルな自分を知るためだったのかもしれない。

昨日は心配している5歳と長女と婿の手前時々起きて食事を取っては眠り続けた。セルシンをワンシート持っていた。離脱したと偉そうなことを言いながらもエビリファイも実はちゃんと置いてある。希死念慮は想定内だ。セルフコントロールが出来なくてDID治療は語れない。

浅い眠りの渦中洪水のように溢れる幻覚に呑み込まれる。母が怒鳴り父が泣く。服を脱がされた子どもの兄が逃げ回る。線路の下のトンネルで拾った子犬が避雷針の脇の用水路を流れていった。

一体何週間が過ぎたのだろう。この間たったの1日しか経っていないが気がつけば辛い頭痛が止んでいた。目を開けて天井を見る。日付が変わり遅い朝が来ていた。

病院は?行く?

長女が言う。

行かないよ。

主人が言った。わたしは微笑んだ。

YouTubeではTHE MODSがようやく聴衆とコミニュケーションを取り始めたと渋谷陽一が語っていた。彼らこそ普遍的な情緒を持っているんです。パンクとはそうだろうと僕は思うんです。珍しい音源です、お聴きください。THE MODS〜TWO PUNKS。

ボーカルの森山達也は照れ臭そうに小さく呟いた。‥‥みんな聴いてくれ。‥‥TWO PUNKSよかったらみんなも‥‥歌ってくれ。

主人はどうしてTHE MODSなんてバンドが好きだったのかな?考えてみればそういう話を30年間1度もしたことが無かった。

わたしは本当はさ、大滝詠一が好きなんだよね。

そんな話をいつか主人としてみたい。