わたし珈琲が飲めないんです。最近一緒に遊んでいる若い友人が言った。タイ、マレーシア、フィリピン。アジアを中心に頻繁に旅行へ行く彼女は意外にも珈琲が駄目だと主張した。
それはさ、珈琲の香りとか味とか、そんなのが嫌いだってこと?わたしは尋ねる。
彼女はハンドルを軽快に切った。わたしたちは午後を何処でだらだらしようか決めかねていた。大きな秋田犬とフレンチブルドッグが店内をウロウロする、ちょっと変わったカフェへ行こうか。そこはちゃんとしたインドのスパイスカレーが食べられるから。
彼女は言う。わたし犬は駄目なんです。特に大きい犬は。あのさ、山羊は?そのカフェの庭には山羊の親子もいる。山羊は大丈夫です。彼女はアクセルを踏み込む。登ったり降りたり。この街は山をどうにかして造ったニュータウンだから道は全て登るか下るかである。
わたしは悩んだ結果行きつけのカフェへ行くことにした。今日は週末だからお洒落なカフェはおばさんとカップルで賑わっているに違いない。わたしがいきつけとするカフェのバリスタ兼マスターはうるさいおしゃべりの客と幼児を店内にけして入れない。小さなお店だが真空管アンプのJAZZの音量が大き過ぎることを除けば素敵な場所である。
わたし珈琲が飲めないんです。いえ、嫌いでは無いんです。つまり珈琲をこれまで摂取したことが無いんです。
摂取したとかさ、女子は言わないよ。わたしは茶化してみたが彼女は笑わない。じゃあコカコーラは?はい、コカコーラも飲んだことありません。あー、そっか、コカコーラ飲むとアメリカ人になっちゃうかもってもしかして思ってんでしょ。ようやく彼女がクスッと笑った。
珈琲を何回か飲んだことはあります。でも美味しいって思わなかったから。だからお金払って飲むことは無いって思うんです。わたしはiphoneのGoogleナビに行きつけのカフェを入力した。行きつけではあるがそのカフェは不思議なエリアに建っておりナビ無しではいつも行き着けない。そんなエリアのある入り組んだニュータウンに我々は住んでいた。
カフェは扉が外されてオープンテラスに変わっていた。バリスタはイタリア時代からお店のスタイルにはこだわりを持っている。挨拶をして席に腰掛ける。風が気持ちいい。わたしは日替わり珈琲を頼んだ。彼女を見る。どうやらこのカフェを気に入った様子だった。
背の低い小熊に似たバリスタが足音をたてないで可愛らしくわたしたちのシートへやってきた。何か言おうとするわたしを制して彼女が言った。
わたし珈琲が飲めないんです。
おっ。言った。
わたしは小熊似のバリスタを見た。
バリスタは満面の笑顔である。まるで森の生き物なのだ。温かく慈愛に満ちた瞳。囁くような小さな声。わかりました。お任せください。彼は見た目は小熊だが中身はジェントルマンだった。何?好み?こんな感じの子好み?
運ばれて来た珈琲を彼女は飲む。バリスタは見ている。彼女は言った。
‥‥これ、珈琲じゃありません。
おっ。おいおい。わたしはうろたえる。
エルサルバドルです。パカマラという豆ですよ。貴女のような方にピッタリの珈琲なんです。
‥‥だって甘い。彼女が言った。
どれどれ。わたしもひとくちすする。甘い?わたしにはわからなかった。
彼女は今度はわたしの方のカップをひとくちすすった。我々は互いの珈琲をすすり合う。これってイタリアンのお作法的にどうなんだろね。なんかもうわけがわかんない状況だ。
‥‥酸っぱいです。彼女が言った。
へ?わたしは今度は自分のケニアをすする。酸っぱいか?やっぱりわからない。
小熊に似たバリスタはカウンターへ、いつの間にか戻っていた。
わたしは彼女の笑顔と外の景色を代わるがわる見た。
よかった。
午後の風は凪いでいた。カンボジアの話が始まるとわたしたちは森林の深い緑を各々の脳に描いた。コカコーラとペプシコーラではいったいどっちが甘いのか。わたしはそんなことをぼんやり考えていた。