多重人格NOTE その7 マッピング

2011年3月11日、東日本大震災があった時わたしたちは主人の転勤先の埼玉県で暮らしていた。電気ガス水道。電車。交差点の信号機。普段ならばあって当たり前のものが止まった。

緊急避難袋を今でも定期的にチェックする。とりあえず必要なものを二泊三日くらいは行けそうな感じに用意しているが、そのひとつ各種証明書類の防水性のポーチの中には最新の脳内マッピングが必ず入れてある。

マッピングというのは一言で言えば人格リストである。アスペルガー症候群のことを今は自閉症スペクトラムと呼ぶように、DIDにもその症状には幅と奥行きがあり個体差がある。

マッピングは例えば日常に支障を来たす重症度のスケールとは全く違うものだ。マッピングが複雑で難解だからDIDの程度が重いとは一概には言えないだろう。DID患者はひとりひとり独自のマッピングシステムを用いると専門書にはある。ちなみにわたしたちは自分以外のDID患者のマッピングをこれまで1度も見たことが無い。機会があれば見てみたい、そしてDID患者の誰かと屈託無くふむふむ成る程などと語り合ってみたいと考える時もある。

マッピングは最新で無ければならないだろう。この一年間でわたしたちは3人の主要人格を消失した。しかしながら今現在、わたしたちの非常持ち出し袋に常備してあるマッピングは2年前のものだ。マリ、ウサ男、エルが消えたわたしたちの脳内は荒廃していて、マッピングする気分に正直なれないのだ。

ブログで雑感を綴るのと並行してわたしたちは小説を書き続けているが、交代人格が、それも主要な人格の何人かが消息を断ち、狼狽しひどく混乱した脳内を鎮めたものは、実はこの小説作業であった。

小説の中で、脳内人格をモチーフにした登場人物に語らせる、また演じさせる。そうすることで脳内で消息不明となった人格たちそれぞれの関係性を具現化し、それがかつて自分自身にいかに有益なものであったかを残された者たちは確認する。

マッピングとは単に人格をリストアップする作業を超えて、彼ら彼女らの存在理由をその時点で確認する作業であろう。人格たちはそれぞれの顔を持ち居場所を持っている。狂っている、分裂していると当惑させることを知りつつもわたしたちの脳内はこうであると主治医に説明することには大きな意義がある。

マッピングはすべきだ。

それはDID患者の脳内の真実だからだ。

今日は朝から書類等の整理をしながら古いマッピングを探し続けているのだがやはり全て捨ててしまっていた。

初めてマッピングをした時のことを忘れられない。

wordでA4の用紙を横に使って書いた。書いた内容はほとんど思い出せないが書き上げたマッピングを何度も興味深く読んだものだ。自分で書いたものでありながら初めて読むかのような他人行儀な感じがしたし、人格についての簡潔な描写は正しいものもあれば偽りも含まれていた。幾つかの説明は的確であり脳の深いところで納得出来るものだった。懐かしくも悲しくかつやり切れない。感情を取り戻すきっかけがマッピングには沢山ある。

またマッピングはDID患者には間違いなく禁忌を破る行為である。

表に現れないというだけで、治療が進むとともに脳内の状況は変化をし続ける。

壊れる、破れる、崩れる。

掘り進む、あばき出す。

初期のマッピングでは筆記を専門に取り仕切る人格たちは自分たちについての詳細をたいていは割愛した。そもそも人格たちは共通してどれも表に出ようとはしないものだが筆記専門の女性人格たち、それはわたしたちのことであるが、現在も自分たちについて書けとなれば敬遠である。書ききれない難しさを感じるし、それをするのはいけないことだ、守秘義務を怠り、弱点を晒し、人格全体で負けを認めるようなものだと。

わたしたちはさもしいことだが書くことで闘って来たと勘違いしている。どうやらこのスタイルが染み付いてしまっている。1度書いたものは訂正が効かないわけではない。畢竟一球入魂なのであるが、ごめんなさいが言えることこそ大人の証拠だ。

今後は真実のみを書き記したいと。