木彫り熊紀行⑦ペザントアート

図書館でペザントアートの本が一冊だけあった。日本のペザントアート界の第一人者と言われる林二郎著文化出版局「木彫と木工」である。ペザントアートとは農村美術のことである。

「木彫と木工」は良い本である。ペザント椅子という椅子があることをはじめて知った。この本によればフランス風、スペイン風、ロシア風とあるがそれが伝統的な図案によるものか林二郎という作家のオリジナルなのかわたしには未知である。

ペザントは小作人。農閑期ばかりではなく雨降りに何かを作ったりすることもペザントアートと呼んでいいだろう。農村は北海道だけでなく全地球に存在する。カンボジアにもペザントアートがある。雨季、そして乾季がある。

木工の本を数冊並行して読んでいる。ほぼ読み終えたのは東洋書林「世界の木工文化図鑑」と前述の林二郎さんの本だ。「さあ始めよう ナイフで木彫り」という可愛らしい新し目の本を借りたがトーテムポール型のサンタクロースを次々彫らせるという謎の本だった。美術出版社「新技法シリーズ 彫刻をつくる」はとても内容が深い。一頁一頁考えながら読んでゆく。

「新技法シリーズ」を読み終えていないが、だいたいのラインが見えて来た感じがする。

北海道の木彫り熊に何故わたしがときめいたのか?

 ここまでは熊、とにかく熊だと繰り返した。そして作風。特に八雲の木彫り熊は時代や団体のスタイルに収まらない。一個人を表現する熊である。

何度も書くがわたしにはこれが正解だと何か結論する審美眼が無い。無いと言うよりもっと言えばそういうものを持ちたいとは思わないのだ。もちろん何処かの誰かが表現したものの正誤を論じるのは人それぞれ、自由だ。

わたしは大学も出てなければもちろん大学院で論文を書いたこともない。論文を書く時には何百というサンプルを比較検討し平均値を出さねばならないと聞いている。何百ものサンプル、美術ならば作品や作家たちにはそれぞれ何十、物によっては何百もの批評が既に現存している。それを全部読むお金も時間も無い。刺激に弱いわたしの脳はそうした大量の情報を蓄える力も無い。

無い無いばっか言ってるが有るものだってちゃんと有る。

それは感覚だ。

感覚を研ぎ澄まして、記憶の中の感情の一場面一場面を鮮明に保つ。けして曇らぬように、かつまた論理展開しやすいからと歪曲せぬように正直さと誠実さにおいて譲らないで進むのだ。

「新技法シリーズ」p123に感覚量という言葉がある。これはつまり彫る前の木の容積に比較して彫り終えた作品は木材そのものの容積は少なくなっているが、作品の存在感は確実に増しているという彫刻の原則を指す言葉である。はじめはゴロンとした木の塊であったがこつこつ彫り進むうちその塊が一匹の子熊として息づいてゆくのだ。

彫刻というのはその点で絵画や朔造(粘土細工)と異なりやり直しが効かない。削り取ってしまった木片は元には戻らない。

文芸社「木霊の再生」の最終章、竹沢さんは八雲の木彫り熊作家である柴崎重行の晩年の作業小屋で散在する木屑を見た。柴崎重行氏は故人。優れた彫刻家としてその名を資料館に連ねている作家の1人である。

話をペザントアートに戻そう。柴崎重行氏は酪農家であったから彼の熊はペザントアートだと言える。ペザントアートとしての木彫りの作業工程はけして学校の美術の授業のような簡単な作業ではなかったことだろう。適当な木を森から切り出し、何処をどう削ることでどんな線が描かれるのかという自前の感覚を頼りにした、経験値だけがものを言う実践が続く。

わたしは今日の時点でとにかく何か削りたくてたまらない。

林二郎「木彫と木工」をもう一度読む。p14。市販製品に彫る、とある。林二郎は台所にある木じゃくしや木のスプーンにちょっとしたいたずら彫りをしてみたらどうか、と提案している。

やっちゃおうかな。

わたしは去年の秋から畑を始めた。こう見えてれっきとした農民だからわたしの作品はペザントアートだ。

なんか。

ドキドキしてきた〜