診察で宇治拾遺物語について話す。宇治拾遺物語とは鎌倉時代前期に書かれた作品集である。第七巻の一に『五色の鹿の事』という話があるが、今日はその鹿の話を始めないことには何も始まらない。
小学3年生。国語の教科書にこのお話が載っていた。挿絵もはっきり覚えている。当時の担任が読み聞かせてくれた。よく覚えている。教室の感じ。木の机。手提げの中にはぬいぐるみのクマ。わたしはJという名前の1匹のクマのぬいぐるみを肌身離さずに持っていた。Jがなければ10分も過ごせない。母からの折檻に耐え、父その他の隣人からの辱めに耐えて過ごす日々を通してJはわたしを支えていた。
気持ちの整理はついているんです。主治医をじっと見る。ここで話してこのことはもうお終いにしようとわたしはそのとき念じていた。
初老の男性教員の読み聞かせる鹿の話は興味深いものだった。わたしは鹿の話に夢中だ。
わたし、そのおじいちゃんの先生がとても好きだったんです。でも引越しで。それが最後の授業だったんです。なぎら氏がうんうんと頷く。そのときわたしの両眼は既に涙でいっぱいだった。おじいちゃん教員の深い眼差しを思い出したからだった。
それで同じクラスにてんかんの男の子がいて、教員は男の子とわたしとをいつも特別に扱っていました。ある日男の子がてんかん発作を起こしました。教員はクラスメイトみんなに静まるように、彼は今苦しいのを頑張っているのだからと言いました。
男の子は口から泡を吹いて教員の太ももに必死になってしがみついていた。わたしは怖かった。一瞬目を背けたくなる。でも歯を食いしばるようにしてわたしは悶え苦しむ男の子を見続ける。その時のわたしはそうすれば彼の苦痛が和らぐと根拠のない考えを抱いていた。
発作はまだ止まない。わたしは左手で手提げ袋の中のJに触る。Jが言った。男の子はこのまま死ぬかもしれない。
6月。
わたしの引越しの日、男の子がわたしに一枚の水彩画をくれた。それは花瓶に生けた花束の絵だった。彩り豊かなその絵は寡黙に、何処か遠い目をしていた彼の孤独な姿とはまるで結びつかない華やかな絵であった。
引っ越し先での毎日には様々な要因が絡み厳しいことが凄まじく多くあった。
ある日、わたしひとり、わたしのしでかした何かへの制裁と称してクラスメイトからの集団暴行事件。担任は30代の男性教員だったが、担任はわたしを助けることはしなかった。
もとよりわたしには友人らしきものもなく勉強にも遅れがあった。わたしの不登校を担任は都合良く捉えて放置した。
‥‥わたしに非があったとしても。わたしは黙る。主治医も黙る。わたしは脳内の声を聞く。酷い話だ。ジョージが言う。許されることではない。パトリックが言う。Jは?Jは黙っていた。
わたしは思い出していた。夏が来て眩しい陽射しの中、わたしは山路をひとりで歩いている。山肌から清水が湧き出てきて流れ落ちるのを手で触れた。わたしが手の中のJを見たその時唐突に視界の異変。空が赤く燃えるようだった。吐き気と目眩。しばらくして世界が暗転。真っ暗だった。息がし辛い。てんかんか。死ぬのかもしれないという恐怖。
Jを捨てたらと遠回しに提案した母をわたしは今は責めてはいない。その当時同居していたまだ若い叔父が統合失調症を発病した。Jを中庭の焚き火に投げ込んだのは母ではない。わたしなのだ。DIDは大切なものを蹴り落とす。
Jを亡き者にしたのち、わたしは再び学校へと通い始める。DIDとは悪意の記録だ。両親、教員、クラスメイト。当時のわたしを取り囲んでいた狭い世界を自力で征服せんとわたしはわたしの人間の心をも亡き者にした。
緘黙症になったのはその頃だ。‥‥何度もお前を助けてやったその俺を殺したんだなってクマがわたしに言うんです。わたしがそんなおかしなことを言っても主治医は微動だにしない。
「ここに私がいることを人に語らないでくれと何度も約束をした 。それなのに、今その恩を忘れ、私を殺させようとしている 。おまえが溺れて死にかけたのを、私が命を顧みず泳ぎついて助けたとき、おまえはこの上なく喜んだことを覚えているだろう と、鹿は深く恨んだ様子で、涙を流して泣いた」
Jは焚き火で燃えてのちわたしの脳内人格のひとりとなったらしい。今は幾度もこの宇治拾遺物語の五色の鹿の話の鹿の台詞を繰り返す。
何処か知らない土地でわたしは人を殺して来たのかもしれないと考えることがある。
もう気持ちの整理はついているんです。
わたしは少し嘘をついた。
わたしを殺してやるなんて言ったってクマのぬいぐるみだから。人を殺すなんて無理ですから。わたしは繰り返し呟いて診察室に持参したペットボトルの水をゴクリと飲んだ。
わたしは生きていてもいいのだろうか。
脳内で声がする。
トランキライザーをください。ぼーっとしたいんです。
精神科で出すクスリはみんなトランキライザーっちゅうんやで。となぎら氏は言った。何がいいの?なんでもいいよ。
人間を辞めたい。
人間を辞めたい。
脳内で声がした。
よし、なんか楽しい話しよう。なぎら氏がわたしに微笑む。わたしも頑張って笑ってみた。
わたしは木彫り熊資料館の学芸員のOさんのことを話した。そしてまた仕事をすぐに辞めちゃった夫のことを少しかいつまんで話す。
そんなこんなで何があっても憎まれっ子世に憚るでわたしはへこたれない。
今日から1ヶ月、死なずに生きるからさと言ってさっさと部屋を出た。