スピッツ「僕はきっと旅に出る」を聴きながら。
ここ数日頭の中が整理がつかない。整理をつけるのはわたし自身の仕事であると、繰り返し繰り返し唱えては目を閉じる。
何が見える。深呼吸。
わたしは木彫り熊に惹かれた。
きっかけは?何?
それは明治大正昭和を生き抜いた破天荒な、それでいて徹底的にチャーミングでしなやかに歩んだ徳川義親という人間の圧倒的な存在感だった。
わたしは脳に幾分障害がある。書籍等で整合性の不明瞭な記述を読むとそれが引っかかり先へと進めないのだ。
長い間それは『先へ進めない』というハンデだと捉えて来た。でもちょっと考えればわかることだ。そんなに無理をして先へ進む必要があるだろうか。
わたしはわたしのペースでゆけば良いのではないか。締め切りがあるわけでもない。コツコツと、これでもかと絡みつく「はてな」に穏やかに、しなやかに対応して行こうではないか。
これは開き直りではない。''わたし”を肯定しないでなんの研究者と言えようか。何かしらの啓発を受ける。そうしてそれまでの少ない経験値と浅い見識を徐々にアップデイトする。それこそが研究というものの正しいスタイルなのかもしれないのだ。
さて、わたしがもう何十時間も立ち止まっているのはとある記述だ。それはこれまでの資料に繰り返し出てきている。義親の北海道旅行である。
時は明治42年。当時北海道には鉄道はまだほとんど無く、義親は馬ないしは徒歩で20日間余りの旅をした。
全行程約二百里。一里は約4000mであるから二百里というと800km。中央本線の名古屋東京間が丁度390kmほどなのでそれを徒歩と馬で往復した感じの距離だ。ふむふむ。
日本経済新聞社「私の履歴書」p105にはその時の心境を義親自身がこう書いている。
「私は少年時代から北海道に憧れていたのだから、「しめた」とばかり(中略)出かけた」。
「すべて昼も暗いジャングル、景色は全く見られず、湖には近寄ることも出来ない。蚊と虻の大群に襲われ、くまの足跡がある中を約二十日二百里の苦しい旅行をした」
義親はこの時23歳だった。義親は幼くして生家を出され、様々な苦労をしている。23歳の彼はどんな感じの若者だったのだろうか。
義親のこの北海道旅行はひとり旅ではなかった。当時八雲の大野農場の管理人をしていた大島鍛(きとう)、そして徳川家の家従五味末吉という同行者がいた。
道中の道沿いに駅逓(えきてい)と呼ばれる宿屋があったという。これは官営の馬宿で3里から5里の間隔でひとつ、あったらしい。ここで馬を取り替えたり宿泊をした。
義親は侯爵だったから各地の駅逓でさぞかし歓迎されたことだろう。どんな場所でどんな出会いがあったのだろうか。そこで義親が触れ、垣間見た北海道開拓時代の暮らしはいったいどんな景色だったのだろうか。
この旅の同行者のひとり、大島鍛という人のポートレートがわたしの手元にある。明治4年生まれ。義親と北海道旅行をした当時大島は38歳。彼は名古屋の矢場町の生まれで16歳で八雲町に移住し、「幼年舎で教育を受けた」とあるがいったいこの幼年舎とはどんな施設だったのかそれもこれからリサーチする予定である。16歳の大島鍛は家族と共に移住したのかな。それとも単身、北の大地を踏んだのだろうか。
直感に過ぎないが、この北海道旅行はその後の義親の北海道という土地への関わりを大きく左右したのではないかとわたしは考えている。
だからこそこの時の義親の目に映った空や山、家畜や人、同行者との励まし合いを知りたくてたまらない。
国会図書館のデジタルコレクションをちびちびよんでいる。本当に焦れったいのだがわたしは本を読むのが遅い。文字を追い、考えては止まる。そしてまた文字を追う。
しかしまたこれも取り柄のひとつと捉えたい。
旅に出る。
いい響きである。
スピッツの曲、なかなか良い感じですよ。