連載小説 小熊リーグ⑩

「僕の熊は、そう、青い熊でした」新海氏が唐突に言った。

青い熊?僕とウィルはほぼ同時に小さく声を上げた。

「青いんです」新海氏はベンチに腰掛けた姿勢で、地面に両脚を軽く踏ん張り、何か悔しそうに左右の膝を掌で掴んだ。長い指をした大きな掌だった。

「僕は色覚障害者なんです。色覚障害って知ってます?色盲ともいう」新海氏は視線を落としたままつぶやいた。

「わかります」

「僕は赤と緑がわからない。UNOって知ってます?トランプみたいなやつ」

「ああ」

『UNOって何?』ウィルはUNOを知らないようだ。まあ、後で説明してやるから。

「僕はあれが苦手で。赤と緑を間違えちゃう。よく見れば違うんですよ。‥‥こう、濃淡というか、色彩が全く違う。赤はちょっと荒っぽい色相をしてる。緑はそれに比べるとずっと大人しい」

「僕が生まれた時に祖父がテディベアをプレゼントしてくれましてね。これくらいの大きな箱に入って送られてきた。その頃祖父はアメリカの西海岸でワイン農家をしてました。アメリカ人は男の子が生まれるとテディベアを一匹贈るらしいですね」

「へえー」

「色覚障害って遺伝するんですよ。祖父は自分が色覚障害者だったので、僕が生まれた時に自分のその障害が赤ん坊に遺伝していないか、それをとても気に病んでいた。‥‥僕、初孫なんです」

「その、あの、ブルーは、青色は見えるんですね」僕がそう言うと新海氏が僕をじっと見て言った。

「僕には見えないものなんてない。ちゃんと見えてる。僕には赤も緑も青も黄色もちゃんと見えている」新海氏はニコッと笑った。「負け惜しみですね」

「色覚障害を矯正するレンズがあるんです。僕にそのレンズを勧めてくれたのは同じくカメラマンをしていた恋人でした。‥‥好意だったと思うんです。彼女は良かれと思って僕にそのレンズを買ってきて‥‥」そう言うと新海氏は眉間を狭めた。少し苦しそうな表情で自分の膝の辺りを見ている。

「‥‥僕たちは一緒に暮らし始めたばかりでした。僕は彼女と結婚しようと思ってた。お金を貯めて、新婚旅行はパラオに行こうなんて」

「レンズを、‥‥かけたんですね」ウィルが言った。黙っていられない。ウィルはそういう熊なのだ。

「レンズをかけた僕は正直何も見えなくなったんですよ。辺り一面、何もかも。いや見えるんです。‥‥見えるんですよ。でも僕の、それまで大切にしてきた僕だけの、‥‥その、世界は、その瞬間乱暴に塗りつぶされてしまった。それまで僕がちゃんと見えていたと考えていた僕の世界は‥‥」

「世界は?」

新海氏は笑った。「‥‥実は全部嘘っぱちだった。僕は長いあいだひとりよがりの世界にいた。子どもの描く、下手くそな落書きみたいな世界に」ウィルは困った顔をした。

「しばらくして彼女は出て行きました。レンズをプレゼントされたあの日から僕たちは少しずつ噛み合わなくなっていったんです。‥‥そして僕は統合失調症を発病した」新海氏はまたニコッと笑う。ウィルは泣きそうだった。

「貴重な話を聞かせていただきました」僕にはもっと話を聞きたい時にこんな風に言う癖がある。

「じゃあ今かけてる眼鏡は?」ウィルはまたもや黙っていられない。

「これ?これは伊達眼鏡。いやちょっと今日は余分な話をしました。さすがは精神科医の先生だなあ。つい話しちゃいましたよ」

ウィルが僕だけに聞こえる声で『青いテディベアのことはどうなった』と言った。僕は強い視線を送りウィルをたしなめた。

僕はいつかきっと新海氏は僕らに、おじいさんから貰ったという青いテディベアの話をしてくれるに違いないと確信した。

その時僕は1年前に亡くなった母のことを思い出していた。それはたぶん新海氏が自分の色覚障害は遺伝性のものであると語ったからだろうか。母は解離性同一性障害を患っていた。そして自殺を図り亡くなったのだ。

そして僕はそのことを微塵も知らないで大人になり精神科医になった。そして脳の病気を発病し、こうして今精神病院にいる。

僕は自分を生んだ母親がどこで何をしているかも知らない、孤独な子ども時代を過ごした。