連載小説 小熊リーグ⑪
朝食後すぐ診察に呼ばれ、白衣大王の尋問にいつも通り毒づいて部屋に帰ると外出のための荷物を作った。
荷物といってもトートバッグに財布やハンカチを入れるだけなのだが久しぶりのスニーカーなので靴下を履く。やっとの事で靴下を捜し当てる。腕に時計を着け、ナースステーションで外泊申請書にサインをし、預けておいた現金とiPhoneを受け取った。
正面玄関を出るとバスターミナルが眼下に見える。しかしすぐそこに見えているだがなかなか着かない。そうこうしているうちにロータリーにバスが現れた。最寄りの私鉄の駅までのシャトルバスは1時間に1本だ。待ってくれ。僕は下り坂を走った。僕が乗り込んですぐバスは発車した。
バスは山を下っていく。
ヘアピンカーブ。車窓から棚田が見えた。稲穂が色付いていた。
僕は新海氏の色覚障害のことを考えた。青色と黄色以外は無彩色の世界。彼はグラデーションの違いから微かに感じられる独自の感覚を研ぎ澄まし何十年も生き続けているのだ。
PTSDだ。統合失調症と言っていたが彼はおそらくはPTSDであり、矯正レンズの強いストレスで除反応が起こったに違いない。
モノクロに近い世界が一瞬でフルカラーになるのだ。繊細な彼の感性は悲鳴を上げたに違いない。
統合失調症の被害妄想や幻覚の類いは精神薬の副作用でも出ることがある。しかしひとたび妄想を生じたその症状が疾患によるものかはたまた薬によるものか、その見極めはむつかしい。
むつかしいというより真実を見極めようなどと考える精神科医はいないだろう。我々にはそんな思考回路は無いのだ。精神科医は修羅場に慣れている。そして修羅場を収めることにやりがいを感じてしまい、守備良く平穏を取り戻せたならそれは手柄となり、日々の活力となるのだ。
僕はどうだ。
僕は統合失調症なのか。
それとも解離性同一性障害なのか。
僕は新海氏と話すうちに奇妙な確信を抱くようになった。僕ははたして統合失調症なのか解離性同一性障害なのか。それを今はっきりさせることには大した意味は無いように思えるのだ。どちらだとしてもそれが現時点での僕なのである。その点で僕は新海氏と少し似ているのかもしれない。
僕はバスの振動に体を任せて声に出して言ってみる。
僕の患者だった解離性同一性障害の彼女と、解離性同一性障害という患者になったかもしれない僕と、それから解離性同一性障害を患っていながらこの僕を生んだ母親と。
そして僕にはウィルがいた。
ウィル。
ウィルはしばらくは体をゆらゆらさせていたがやっぱり寝てしまった。
僕はひとり苦笑いをした。
ふと視線を感じて顔を上げた。反対側のシートの若い男性が僕を見ていた。そしてとっさに目を逸らした。
僕は苦笑した。