連載小説 小熊リーグ⑱

「熊は悪い奴かもしれないけれど、それは家畜や人を襲うからだけじゃないの」カウンター席の僕の隣で咲子さんはそう言ってマスター特製今月のデザート、青カビチーズケーキをパクりと食べた。

「美味しいだろう、おい」マスターは彼女を顔を覗き込む。「美味しい」咲子さんは目を細め笑顔を返した。

秋が過ぎようとしていた。僕は自宅の客間で寝起きしては2週間に1度、電車を乗り継ぎ2時間掛けてあの山の上の精神病院へと通院をしていた。

実家へ帰ってすぐの頃に何度か父のクリニックで診察を受けた。父は優秀な精神科医である。健全な生活習慣とスポーツ等のカタルシス効果が精神薬の離脱の近道であることをわかりやすく説いてくれ、必ず寛解すること、そして寛解するためのステップはこうであると明確に示された僕は心から安らいだ気持ちになった。しかし見たことのないはずの母の幻視が消えないことや脳内でクマやイヌが語り合うといった僕の症状を僕は説明しなかった。 診察室で僕は父に尋ねた。1年前に自殺した母はどんな症状だったのか。母の初発の病態と僕の今の感じははたして似ているのか。しかし父からのそれについての説明は無く、父は、いずれ時期が来れば必ず話すと僕に約束した。 僕がそのことをその場で聞きたかった気持ちはその瞬間に消えた。僕と父のすぐそこのとても近くに不穏な何かを感じた。DIDを発症する要因に性的虐待などの心的外傷があるとされている。僕は確かな予感を抱き始めていた。封じ込めた記憶の景色にはおそらく母がいることを。 僕が全てを知りたいという気持ちは間違っても好奇心や探究心といったお気楽なものではなかった。それは震えるほどの渇望だった。制御出来ない衝動だった。だからこそ先延ばしすべきだと判断した。そして父の表情からして、先延ばししたところで僕自身その記憶から上手く逃げおおせるものではないことを瞬間に理解したのだ。

結局父は僕の主治医を辞め、僕は入院していたあの白衣の似合う主治医の元へ戻った。病院帰りは足を伸ばしてこのカフェに寄るのが習慣だった。

「じゃあ一体熊はどう悪い奴なんですか」僕は咲子さんに尋ねた。咲子さんは僕を見て言った。

「陽一郎君のウィルベアはさ、服、着てる?」

「着てますよ、今はナイキのブルーのTシャツに、ええと下はジーンズなんだけど‥‥」

『その辺に売ってるやつだよ』ウィルが言った。

「その辺に売ってるやつだって言ってる。はははは」僕は咲子さんとマスターには脳内のことを素直を話せるのだった。あれ以来カフェで酷い発作を起こすことは無かったが、マスターも咲子さんも僕を気遣って会うたびに気分はどうかと尋ねてくれる。

「熊にもね、紳士的な熊と、野蛮な熊が居る」咲子さんはカフェ・ラッテをすすった。

「全裸の熊がヤバいってか。おいおい、おかしいだろ、どこの森の熊がプーマのシャツ着て木に登ってんだ」マスターが笑った。

ナイキだし』ウィルの声はマスターには聞こえない。

「熊は個体差の大きな動物なの。つまり個性が豊か。この子を見て」咲子さんはカウンターの端に置いてあるハツリ彫りの木彫り熊を持ってきた。

「この子は実は小熊なのね。この子をこう、掌に乗せてじーっと見ていると何か感じない?ねぇ、どう?」

「うーん、そんですね、そう言えばなんだかこう、切ない気持ちになるなあ」うずくまる小熊はまるで無防備に咲子さんの掌で安らいでいる。それが可愛いのだ。僕は今すぐ目の前の小熊を抱きしめたいような気持ちになった。

「あたしのリサーチによれば、熊っていうのは人間の脳をアタックしてくるの。バン。アタックね。直接見たり、こうして熊の人形を手に持ったりする時にね。その時に感情効果を及ぼすわけ。ポジティブかネガティブか、様々、こーんなに幅はあるけれどね」咲子さんは右手にクマを持ったまま両手を広げた。

「熊の感情効果かぁ。いやー考えたこともないですねぇ」

「考えてる暇なんかねえよ。山で熊に会ったら喰われて終わりだからよ」マスターが言う。「先生こいつの話をまともに聞くと頭おかしくなるぜ」

「僕は頭の病気ですから」僕は笑った。

「陽一郎君、熊がヒトを襲うのは不安だからなのよ」咲子さんは悲しそうな目をした。