多重人格NOTE その11 過誤記憶

多湖弘明「鳶〜上空数百メートルを駆ける職人のひみつ」を読んでいる。てっきり足場の写真集だと勘違いしていたがこれは鳶職人の男性が書いたエッセイであった。写真が素晴らしいのである。丸太足場は今も使われている。しかしこの本には丸太足場の写真はなかった。

わたしが小さかったころ父は左手の人差し指の第一関節を切断した。土方をしていた父は鳶ではなかったが現場で手を鉄骨に挟まれた。他の何本かの指は辛うじて繋がっては居たがところどころの関節は駄目になった。

6歳の頃だ。わたしは林檎を皮むきが出来るようになり最初の一切れを父に差し出す。父は嬉しそうにそれを食べた。わたしは父の膝に乗り父のへんてこりんな手を調べる。指が無い、怖いという気持ちはなかった。父の手は鉄と油の混ざった工場の匂いがした。

父は独身時代はテイラーをしていたし、独学でピアノ演奏も習得した。その後母が切盛りしていた喫茶店が繁盛すると父はローンでヤマハアップライトピアノを買った。父は毎日のようにピアノを弾いた。駄目になった父の弱々しい音を今も覚えている。

わたしは17。夜包丁を持った酔った父がわたしを追い回す。わたしは自室の扉を閉めて抵抗した。ドスドスいう音が止み扉の向こうの父が戻っていく。するとわたしは部屋を出て父に差し向かい殺るなら殺れと言った。どうしてそんなことを言ったのかさっぱりわからない。父はニヤニヤして殺しはしない顔を少し切ると言った。

わたしの顔に傷は無い。だからあの夜流血事件は起こらなかったのだろう。例によってわたしの記憶は途切れ途切れだ。しかし狂った父がわたしの顔を切ると言った瞬間の記憶は鮮明なものだ。お前の顔はよくない顔だと父が笑った。

ある夜わたしは眠っている父の傍で包丁を手に立ちすくんでいた。母が起きてきて父を起こす。翌日わたしは母に付き添われて精神科へ行く。道中何度も吐き気を催し車を降りては吐いた。中待合の灰色の廊下。診察室のリノリウムの白い床と若い男性の精神科医。その日から数日間わたしは高校を休むがしばらくすると何事もなかったかのように再び学校へ通い始めた。

酔った父に追いかけられた夜とわたしが父を殺そうとした夜とではいったいどちらが先であったのか。それが今ひとつわからない。

35歳でわたしが発病すると母はわたしとの同居を酷く怖がったが母はきっとあの夜の殺人未遂事件を思い出したのだろう。当時わたしの発病が親戚中の噂となりやがて父のわたしへの性的虐待が親戚中の話題になった。父は頑なに否定をし続けた。わたしを含め親戚の誰も父を警察へ突き出すことをしなかった。

いろいろなことを考える。両親が17歳のわたしを警察に突き出すことをせず、わたしを依然家に住まわせた。わたしが人を殺すかもしれなかったというのに。

発病後だいぶ経ってから母からわたしへの謝罪の電話があった。提訴したわけでもないのに母はわたしに突然謝罪して来た。だから母は本心から謝罪したのかもしれなかった。貴女を護れなくて悪かった、何も知らなかったのだと母は繰り返した。しかしわたしは母の言葉がどうしても薄っぺらい保身にしかに思えない。むしろ保身であれば安心なのだ。そんな簡単な突然の謝罪でわたしのこれまでの何十年もの封印を解くわけにはいかない。わたしは狭量で残酷な悪人格だった。もうやり取りを一切辞めたいと提案すると母は泣いた。わたしは冷たく電話を切った。母が癌で死んだのはその数年後だ。

たったの1度でも誰かを殺したいほど憎んだ経験は心に悪い癖を付けた。こんなことは本当は多重人格云々とするわけにはいかないだろう。苦労して心の相克を乗り越え立派に円満で幸福な日常を掴んだDID患者だってきっとどこかに居るはずだ。

わたしが多重人格とか解離性同一性障害とかの本を読むのが苦手なのは強くなるしか道はないと励まされるからだ。

DIDは繰り返し訪れる危機の度に、被害者としての記憶の景色を認める力を失ってしまう。父と母とわたし。そして親戚たち。きっと警察はこう言っただろう。お前たちのゴタゴタはうんざりだ。

指を切断した父は障害者手当を受けていなかった。きっと父の何かの不払いがあったに違いない。

自分を被害者として認める心の強さには自分を信頼して自分の記憶の白黒を正すのだという揺るがぬ意思がいる。

自分を信じる?過誤記憶がそれをし難くする。わたしは自分が保身でないと言い切れるのか。

17の頃ロックスターの早死にが羨ましかった。早死にだけが無様な保身を晒さない方法に思えた。彼等彼女等はまるで英雄に見えた。

いやあくまでも見えただけだ。英雄なんてどこにもひとりも存在しない。人間は皆不完全なのだから。