連載小説 小熊リーグ㉙

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僕たちは駅前通り沿いの新海氏の馴染みの店に入った。空いていたボックス席に座ると店員がメニューを持ってきた。メニューには聞いたこともない片仮名の料理名が並んでいた。新海氏はその中の幾つかを選んで注文すると次にワインメニューを開きあまり迷わずにワインを一本注文した。

「未成年じゃないよね」新海氏が彼女に尋ねた。

「はい。もう23です。でも薬を飲んでいるからお酒は飲めないかも」

「一杯くらいならいいでしょ」新海氏は革のジャケットを脱ぎながら言った。「よく僕のギャラリーの場所がわかりましたね。誰かに聞いたの?」新海氏が尋ねると彼女はうつむいて黙った。

「そうだ。小路先生は個展のこと知らないよね」僕も知りたかった。病院関係者以外で写真展のことを知っているのはマスターと咲子さんだけだ。マスターのカフェには個展のDMを置かせて貰っているが彼女が偶然あの隠れ家的なカフェに入るとは思えなかった。

「‥‥後を付けたんです、わたし」彼女が今にも消え入りそうな声で言った。

「僕の?」僕と新海氏は同時に同じことを尋ねた。すると彼女は顔を上げて笑い「小川先生ですよ〜」と無邪気に言った。

「だろうね、だって僕は今日が初対面だもんね」新海氏はそう言うと席に運ばれてきたチーズの盛り合わせを念入りに眺めた。そうしてさっさと自分のグラスに赤ワインを注いでごくりと飲んだ。「うん、わりと美味しいね。悪いが乾杯はしない主義でね」新海氏はそう言ってから店員を呼び、何か追加の注文をした。

「どこから‥‥その、後を付けて来たの?」僕は彼女に尋ねた。

「今日は‥‥先生のアパートからです」彼女はまたうつむいた。僕は頭が混乱した。

「どうして僕のアパートを知ってるの?誰かに教えて貰ったの?」彼女は首を左右に振ってすみませんと謝った。

「まあ飲みなよ」新海氏は彼女のグラスにワインを注いだ。彼女はワインを一口飲むと僕の方をまっすぐに見て微笑んだ。

「わたし先生に会いたかったんです。先生が事件を起こして大学病院へ移ったと噂で聞いて、それでまずどの大学病院に移ったのかを調べました」

「調べたって、いったいどうやって?」

「先生が初めに入院したあの山の上の精神病院のホームページを見ました。そうしたら白川という名のお医者さんが⚪︎⚪︎大学の助教授をしているということがわかったんです」

「来年の春には教授だよね、ね」新海氏が笑いながら言った。僕は笑わなかった。

「それからわたし⚪︎⚪︎大学の附属の病院の、精神科の外来へ毎日通いました。毎日毎日患者のふりをして待合室で座ってました。そこで小川先生を見たんです。その時は手紙を渡してすぐに帰ろうと思ってたんです。でも‥‥」

店員がやって来てテーブルの真ん中にトマトソースのピザが置かれた。店員が切ろうとすると新海氏がいいよと合図して店員を下がらせた。

「もしかして先生には奥さんとかいるのかな、もし居るのなら手紙は迷惑かな、なんて思いました」

「それで?」新海氏の声は少し強めだった。

「わたし病院を出た小川先生の後を付けたんです。雨の日でした」

「いつ頃?」僕が尋ねた。

「先月です」

「先月の診察っていったら僕と駅で会った日じゃない?」新海氏が僕を見た。

「そうです。先生病院からバスに乗りました。だからわたしもそのバスに乗って‥‥。どこで降りるのかな、って‥‥はらはらしながら」

「‥‥ちょっと長くなりそうだ。一旦食べようか。ピザ冷めるしな」新海氏が言った。彼女は悪行を告白して気持ちがすっとしたのか素直にピザを頬張った。

「あの日ってスタバ行って‥‥。それからどうしたっけ」新海氏が僕を見る。

「商店街をお二人でしばらく歩いてから吉野家行きましたよ」彼女が言った。「小川先生も吉野家行くんだ〜なんてちょっと意外だった」そう言って彼女がピザにタバスコを降りかける仕草がなんだかすごく可愛いかった。そうは思いながらも起きた出来事を上手く受け止められずに頭の中は混乱していた。

「どうして声をかけなかったの?」僕は尋ねた。

「だってもしも女の人と待ち合わせだったらって考えたらなんだか怖くなっちゃって」

「あのさ、鳥山さんだっけ。むしろ君の方が充分怖いから。君のしたことは尾行だよ。探偵じゃないんだからさ」新海氏はずけずけと言う。「ですよね」彼女は笑った。

「ねえ笑ってるよ〜。小川先生、君尾行されてたんだよ。なんか言うことあるでしょう。これはプライバシーの侵害だよ〜」

「‥‥ですよね」彼女は今度は笑わなかった。

解離性同一性障害の患者は時々びっくりするほどのスキルを発揮すると専門書にあったのを僕は思い出していた。綿密な計画と用心深さ、超人的な辛抱強さを兼ね備えて完全犯罪をやってのける患者もあるという。

「会いたかったんです。手紙を渡したかった」

「手紙は小路先生に渡すんじゃなかったの?」僕は尋ねた。

「小路先生はもう嫌なんです。診察の時、小路先生がわたしの手を‥‥」

「手を?」僕は身を乗り出した。

「たぶん握ったんだろ。手ぐらい握らせてやれよ。減るもんじゃないんだし」新海氏がそう言って彼女の顔を見た。「騙されないよ。鳥山さん。後を付けるなんて絶対にダメ。23にもなって、大人だったらそれくらいわかるよね」新海氏がひとことひとこと釘を刺すように言ったので彼女は口を尖らせて新海氏を睨んだ。

店員がやって来てソーセージの盛り合わせを置いて行った。

「はい、ちゃんと反省したら食べていい。ほら、ごめんなさいって、心から謝罪して。じゃないとソーセージ食べられないよ」

「‥‥ごめんなさい‥‥」彼女はうつむいた。ポタポタと涙がテーブルに落ちる。

「泣けば済むとかじゃないんだから」新海氏は容赦無く言葉を続けた。

「もういいよ、被害者は僕なんだ。ほら、ソーセージ、食べなよ。なんだろうこのソーセージ美味しそうだな」

「サルシッチャ。ここのサルシッチャ美味しいんだ」新海氏が笑顔になったので彼女は顔を上げた。それでも彼女の涙は止まらなかった。ハンカチで顔を覆うとますますひどく泣き出してとうとうむせび泣く感じになってしまった。しかし新海氏は一向に気にならないという感じに飲んだり食べたりし続けている。

「返事を書こうと思ってたんだよ」僕は泣き続ける彼女にちゃんと聞こえるようにと優しく声を掛けた。

「なかなか上手い言葉が出てこなかった。僕の方こそ君の治療を途中で放り出したんだ。謝らなければならないのは僕の方だ‥‥」その瞬間に僕は言葉が喉に詰まったようになり目を閉じた。ウィルベアが彼女を見つめている。彼女とウィルベアとを交互に見ていると僕は突然涙がこぼれた。

「あーあー2人とも泣いちゃった」新海氏はそう言うと席を移り、彼女の髪を頭頂部から後頭部にかけてゆっくりと丁寧に撫でた。

「あっこらー。勝手に触るな!」僕は泣くのをやめた。

「よーしよーし」新海氏は髪を撫で続ける。不思議なことに新海氏が髪を撫でると彼女は少しずつ泣き止んでいった。

「おい、‥‥席、代われよ」僕は新海氏に合図した。新海氏は人差し指を口に当てて僕を制した。僕は仕方なくサルシッチャを食べてワインを飲んだ。美味しかった。これ美味しいな、と思わず声が出た。

「まだパスタ来るからね〜」新海氏が彼女に声を掛けた。

「そんなに食べられるかな〜」突然彼女は顔を上げて朗らかに笑った。

まるで別人のように豹変する彼女を前にして僕らはとても驚いた。これが解離性同一性障害というものなのかと。