映画「ビューティフルマインド」を観ました。

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わたしは幼い頃からほのぼのとした光景、何でもないような取り立てて誰かに話すことでも無いような瞬間、そんな日常が続く生活というにものに強い憧れがあります。上手く書けないけれど、そういう物たちこそわたしには長年決して手に入らないものと言う思い込みがあった。それは別世界の、異次元の架空のものだという諦めがあった。

ある方がわたしへのコメントでこの映画に触れておられたので速攻TSUTAYAで借りて来て観ました。観たくてたまらなくなったのですよ。かつて何度も何度も台詞を暗記するほど観た映画でしたがやはりこの年になり、若い頃とは一味も二味も違った感覚が要所要所で沸き起こり新鮮な涙がこぼれ落ちます。

きっかけは風邪でしたが気管支喘息の発作を起こし昨日主人の車で内科に駆け込みました。息が苦しく全身が汗ばみました。気の知れたドクターと互いに半笑いで「あっかーん」「大丈夫や」などと軽口を叩く余裕がまだまだあったもののしかし体調は悪く、それもこれも出来損ないの小説作業の影響なのだろうなと薄々勘付いています。

こんな時にこんな映画を観て大丈夫なのかと普通は考えますがわたしも主人も映画なんて所詮作り物、嘘っぱちだと重々承知しています。だから今こそ果敢に幻覚と対峙し続けたわたしの中のジョンナッシュに会いたかった。彼のファイティングスピリッツを分けて欲しかった。

実は最近わたしは以前ほど人格の結晶化を脳内で認識出来なくなりました。その代わりなのかもしれないのですが訳の分からない、全く意味不明の言葉を語る幻聴が時折あります。これは真性「統合失調症」の発症なのかもしれません。シュナイダー一級症状の優等生なのかもしれません。

映画というものは人を啓発します。ひとりの人間の、または複数の人間の関わりをとおしてのそれでも我々は生きているのだという事実の確認作業を手伝ってくれる。

それにしてもジョンナッシュの奥さん(ジェニファー・コネリー)の眼差しが良い。実を言えばわたしの主人も一時期無闇に潤んだ瞳で狂って暴れるわたしの一挙一動を遠くから見つめている時があり、そんな懐かしい時代を思い出しました。

今回わたしは勇気を出して初めて主人とこの映画を一緒に観たのです。

そして主人が最も感動したシーンは発病し苦しい闘病生活を経て回復に向かいつつあるジョンが大学へと舞い戻るシーン。学生時代ジョンの不可解で奇天烈な行動をおおっぴらに嘲り彼を酷く傷つけたライバル(ジョシュルーカス)が彼を大学で雇用するシーンでした。

思えば若き数学者たちは吹けば飛ぶような取って付けたプライドで不器用な毎日に苦しんでいたのかもしれません。一歩間違えば自分も狂気の谷底に堕ちたかもしれない。そのシーンでは教授となったかつての隣人は彼を憐れみに満ちた瞳で凝視します。

社会の成功者としてのアドバンテージか。ひねくれたわたしはかつてはこのシーンが嫌いでした。でも昨日違いましたねえ。居場所を求めて虚無を彷徨ったという共通の言語でふたりは一瞬こころを通わせたように思いましたねえ。おそらくわたしの中に寛容が芽を葺いたのかもしれません。いやこの人二枚目やな〜。まあ表向きはそんな反応でしたけどね。

チャールズ、そしてパーチャー。小さな女の子。あなたたちは単なる幻覚なんかじゃない。苦しい時に彼を助け、励まし、時に無言で傍を共に歩き続けた同志なのです。

映画は統合失調症としての一般論を描かねばならないから仕方のないことだけど彼とチャールズは男女を越えた深い絆で結ばれていますから、なんど無視されてもチャールズは彼を去りませんし、パーチャーもまた半笑いで腰に手をやり彼を見守り続けてゆくのです。

ジョンは躊躇せずに女の子を抱き上げたとわたしは思います。わたしもまたそうだからです。

病んでいるとしても病みながらも日々を生き抜いて行かねばなりません。いったいどこに健常者である証拠を24時間提出する義務があるというのでしょう。

開き直りも甚だしい、お前の戯言は聞き飽きた。現時点のわたしの幻聴の主題はこれですがわたしは声のする方にひたすら笑顔を返します。

わたしの一生なんて小さな小さな世界の物語に過ぎないのだから。

怖がらないで、安心してくれよ。

誰かに迷惑を掛けたのなら誠実に謝ろうよ。

今出来ることでしていないことを少しずつやって行こう。

たぶん躁状態なんだなあ。

ジョンナッシュさん死んでた。

出来るならひと目彼に会いたかったです。