多重人格NOTE その12 交代人格なるもの

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多重人格の最たる「あるある」それは交代人格なるものであろう。今日はこれについて「わたしの場合」を書きたい。

わたしは友人に自分が多重人格障害であることをそれほど話してはいない。それほどというのは話していたり、話していなかったりである。ちゃんと話しているのは数人だ。

この人には話したほうがいい、そうだそのほうがいい、わたしはきよぶたの意気込みで「‥‥まあ世の中には”解離性同一性障害”っていう脳の病気があるんだけど‥‥まあ90年代の米国の一人の精神科医がね‥‥」ともごもご。

すると彼女または彼が「知ってるよ。それで今喋ってるのウサ男?」などと返してきたりする。これ。これよ。リアル多重人格。赤っ恥だ(病気とはいえこの状況は恥ずかしいわけです)。

人づてだが交代人格の万引きに悩む患者さんを知っている。それ系の本には知らぬ間に見知らぬ男と肉体関係を持ち泥沼になるなどとある。交代人格の交代のポイントとなるのはひとつの事だ。交代が必要な危機的状況での回避策としてのピンチヒッターだ。

多重人格障害は嗜癖を持つことが多い。わたしは随分子ども時代(10歳)に既にアルコール嗜癖であった。真夜中過ぎどんなに眠くても一升瓶の二級酒を飲みながらであれば宿題を済ませることが出来た。出来たと書いているがわたしが覚えているのは最初の一杯までだ。これは普通に新橋辺りのサラリーマンの最終乗り遅れ、記憶ない事件と似ているかもしれない。

そしてそのアルコール嗜癖も20歳の時の妊娠でなんとか収まっている。間違いなく嗜癖であったし、間違いなく断つことが簡単であった。おそらく多重人格障害の人ならば同じ様な不思議な経験をしているはずである。多重人格障害には極めて強固な人格が存在する。そして彼または彼女が危機的状況を回避する。

交代人格は「感情の断片化」であると言われることがあるがわたしの場合はそうではない。

⚪︎⚪︎子、5歳、悲しみ担当。××男、9歳、怒り担当などと本屋さんの専門書にもあったりするが、結晶化された人格は一緒に年も取るし、彼または彼女は一人のニンゲンなので悲しんだり喜んだり、時には食べたり飲んだり、踊ったり歌ったり。

悲しみ、怒りなどわかりやすく対応し易い感情を表出させる症状はおそらく診察室サイドの描写であり、ひとたび結晶化された人格は常に一緒に居てわりと普通の人間臭い存在である。臨床論文などでは交代人格にもちゃんとプライバシーの配慮がされていて仮名としてくれているものもある。嬉しい限りである。

交代人格というのであれば何故動物が脳内に存在するのか。兎、猫、犬はわりとポピュラーだ。ペンギンというのも読んだことがある。

言語体系を持ちコミニュケーションを取れるものもあればそうでないものもある。わたしは170cm程の身長の背広姿の兎の幻視を見続けた時期があった。カフスのところからもわもわと白い毛が出ていた。よく隣で正座をしていた。正座をし背広を着た兎が現れると決まってわたしは失神した。

DIDをPTSDと捉えることで除反応をし、奇妙な幻視は消える。DIDの危機的状況での代打の個性によっては緘黙となり、難聴ともなる。被害妄想を語るかと思えば誇大妄想で鼻を膨らませていたり。動き過ぎで休息を取らず燃え尽き症候群にもなる。自損自傷衝動に駆られたり希死念慮に襲われたり。以前「DIDは精神科的症状をフルスペックで持つ」と上手い表現をしてくれた男性がいた。

家族がやきもきするのをよそに朝が来れば何事も無かったかのようにアンドロイド並みの鉄の心臓で周囲を驚かしたりもする。

結晶化されない一打席限りのピンチヒッターは雰囲気だけを脳に残したりすることがある。自分がDIDだとわかるまでわたしはどうしてこんなにも自分は幽霊を見るのだろうかと本当に怖かった。ドアをノックする音や風も無いのにカーテンが揺れる。

ある時は「わたしは庭の山茶花の妖精です」と台詞をいう人格にも出会ったことがある。あとでわかった事だがわたしの脳内人格たちはたいそう演劇好きであるのだ。

こんななんやかんやを友人に説明したいと思うポイントはたったひとつ、目の前の友人が混乱している時である。そんな時、友人たちは必ずこう言う。

「なんか今日別人みたいで気味が悪い」

ここ数年でこう言われることが減った。友人は減るばかりで増えていないということもある。

大切なのは毎日朗らかに生きていくことである。どんな病気を患っていたとしてもそれは同じだ。早寝早起きを守ること。適度な運動を続けていくこと。健全な自尊心を保ち、時には人に頼り、基本おとなしくお利口にする。

まあこんなのは誰だってやっていることだよね。