宮尾登美子「おきみさんと司牡丹」

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「おきみさんと司牡丹」は新潮文庫「楊梅の熟れる頃」に収録されている。この本は宮尾登美子が土佐高知をテーマにした短編を月刊誌に連載したものをまとめた本である。

宮尾登美子が好きで長編を読み始めると止まらなくなる。かつてはエッセイ集も含め揃えて持っていたが数年前思い切って処分した。

この短編集は処分したもののどうしても読みたくなり図書館には無かったので購入した。

最近新しく知り合った友人が何かお勧めの本を貸してよ、というのでこれを渡した。わたしは本を貸すのが苦手だ。貸したことを忘れ亡くしたと思い込みあちこち探したりしてしまう。わざわざ貸してまでして無理やり読ませたことを忘れ、ねえこんな本を知っているか、などと説明をしたことがある。

それで彼女に返さなくていいと言ったつもりだったが数日後に読み終えたよと帰って来た。またしても記憶違いか。脳の調子が悪いといろんなことがある。

「おきみさんと司牡丹」は冒頭の一編だ。司牡丹というのはお酒の銘柄のようである。この話に出てくるおきみさんという女性がとても酒が強い。大酒飲みコンクールで優勝したりもする。

わたしはお酒が大好きで、精神薬を離脱してからは堂々と寝酒が出来るので本当に嬉しく思っている。おきみさんにはそんな意味もありシンパシーを覚えている。

わたしは幼児のころからお酒を飲んでいた。初めて清酒を飲んだ時に体が熱くなり不思議な飲み物だと興味が湧いたのを覚えている。

隣に住んでいた一家の父親が典型的な酒乱であった。普段は温厚な仕事人間なのだが酒が入ると人格が変わる。酒が切れる。すると夜中でも今すぐ買ってこいと怒鳴っていた。金が無いという妻をバットで殴る。叫び声。買いに走る妻の足音。幼いわたしは固唾を飲んで聞いていた。時にはわたしの自宅が宴会となる日もあり熱燗にするなら二級酒だとわたしもよく酒の準備をさせられた。

大人になり熱燗が二級酒でなければならないのは何故かと仕事で知り合った男性に尋ねたことがある。機会が来てわたしはその男性と生まれて初めて大吟醸なる高級なお酒を飲んだのだが「ぜんぜん美味しくない。これじゃまるで水みたい〜」とわたしは嬉々として感謝に欠けたコメントをして周囲に戒められたのを覚えている。

発病後お酒を飲むという行為自体を特別視するという奇妙な症状があった。自分が飲むならば罪悪感に苦しむことになったし、飲む人を見ると気持ちの何処かで断罪してしまう。許せないのだ。

病気が進んだのか治療が進んだのか、果たしてどちらであるかは判断出来ないが今現在は楽しく少しのお酒を飲んでいる。

以前の記事を書いてからアルコール嗜癖の記憶がどんどん蘇る。学校から帰りランドセルを降ろす。当時共働きの両親を助けて毎日夜まで家事労働に追われていた。

その日は体が重かった。何もしたくない。なんだか悲しい。学校も家もどちらにもわたしの居場所は無い。そんな虚無感でいっぱいだった。とりあえず夕飯の買い出しへスーパーへ行かねばならない。

わたしはキッチン下の戸棚から一升瓶の清酒を取り出しコップに並々と注いだ。ぐっとあおるように飲み干す。するとさっきまでの憂鬱が嘘のように晴れ晴れとして脳の中がさっぱり爽やかになったのだ。わたしは自転車で買い出しへと出かけることが出来た。

弱い自尊心を高める方法にお酒を用いるのは間違いだ。

お酒の酔いを借りて勢いで物事に当たるのは間違いだ。

お酒は悪くない。飲み方なのだ。

わたしはお酒なら何でも飲むと勘違いされているのだが最近日本酒が苦手であるということに気づいた。

思い出したのは隣のおばさんが真夜中何やら叫んで道路へ飛び出した夜のことだ。

おばさんは空の一升瓶を思い切りアスファルトに叩きつけた。ガラスの割れる音というよりは何かの爆発音のようだった。

日本酒は苦手だがこの宮尾登美子の短編は心に染み込む。