連載小説 小熊リーグ㊱

https://www.instagram.com/p/tgv3mCFg3t/

「びっくり、すごく美味しい」赤星さんは僕の焼いたパンケーキを二枚ペロリと食べた。彼女をアパートまで送って来てくれた赤星さんを僕は朝食に招いた。パンケーキにはベーコンエッグを添えた。僕と赤星さんはブラック珈琲を飲んだが珈琲が苦手な彼女はホットミルクに砂糖をとかして飲んでいた。

赤星さんが帰って僕がアパートの下の駐車場の角へゴミを出しに行って戻ってくると彼女は洗い物を済まして窓の外を見ていた。僕は彼女とテーブルに差し向かいに座り今後の事を話し合った。

僕は彼女の手を取った。彼女の細い指はまるで人形の指のように透き通るように白く、まっすぐに伸びていた。爪は短く切りそろえられていて今さっきまでお湯を触っていたせいでほんのり湿っていた。

「指輪とか、要るよね?」僕がそう言うと彼女は笑った。

「新婚旅行も行くよね」僕がそう尋ねると彼女は掌で僕の頬を撫でた。僕はその手を払いのけて彼女の頭を両手で挟むようにして彼女のおでこに僕のおでこをくっ付けた。彼女が笑い出したので僕も笑った。互いの思いの中の矢印のままに僕たちは口づけをし抱き合い布団に潜り混んで幾度か性交した。

僕は不思議だった。僕は今日彼女にはっきり恋心を抱いているのだ。

男性の精神科医ならば誰でも診察室で起こる逆転移でおそらく全ての女性患者に対して少なからずの性的な衝動を覚える。これまで逆転移は患者の自己開示だと教科書通りの解釈して、実際に患者に対して恋心を抱くなどという事態に陥ったことは全くなかったし、それが優秀な精神科医の勲章であるかのようにも考えていた。

彼女と初めて診察室で会った時、僕は逆転移としての性的衝動の強さに動揺して赤面した。そこまで強い逆転移は医者になって初めての経験だったのだ。彼女が僕を尾行していたと発覚した時には僕は違う意味でうろたえた。尾行していたかもしれないのは僕の方だったのだ。初診当時僕は彼女の自宅周辺で偶然を装い彼女と出逢う空想をした。そんな日々彼女からのSOSの電話に無様に振り回されながらも心の何処かでそのハプニングを嬉しく感じていた。

こうして今では僕は精神科医を辞めて、彼女は自分だけの恋人だった。しかし僕はその事実を手放しで喜んでいるわけではなかった。何故なら僕たちはふたりとも病んでいるからだ。どちらかが感情のコントロールを失えばそれは簡単にもう一方へ伝播するだろう。その時は操縦士不在のプロペラ機が乱気流で航路を見誤り墜落してしまうように僕たちはダメになるだろう。

僕は考えた。

ダメになるって?咄嗟に笑いがこみ上げた。

僕はもう今既に十分ダメな場所に居るっていうのに。長年嫌悪して来た精神病患者となり、発作を起こして主治医を投げ飛ばし、注射を打たれて保護室では人権らしきものを削ぎ落とした。

そうだ、僕は昨日父の期待と信頼も失った。

僕には今後精神科医に戻る予定はなく、正直父が望むところの立派な人間として生きていくつもりもなかったが、あの父の嘆きをもう2度と見たくはなかった。

そして今の僕には奇妙な自信があった。

こんな現実はこれまでの人生で一度も描いたこともない。僕の妻が僕の傍で可愛らしく寝息をたてて眠っていた。僕には今ここに家族が居る。僕は声に出して笑った。よくはわからないが僕は幸福だ。

「どうしたの?」彼女が目を覚ました。

「またパンケーキを焼いていい?」

「マジで?嫌よ三食パンケーキなんて〜」彼女が言った。僕は調子に乗ってパンケーキの焼き加減のうんちくを彼女に語りつづけていた。