ディックリー「 我我 你你」

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ディックリーを初めて聴いたのはレコード屋で働いていた頃だ。「マッドチャイナマン」を発売したディックリーのCDサンプルがカウンターに溜まっていく。お局女性社員は片付け魔でとりあえずサンプルCDをわたしに持ち帰らせてくれた。

ZIGGYというバンドのCDのサンプルも結構もらったが聴いた記憶はない。ディックリーは良かった。その流れでサンデイー、喜納昌吉、ボガンボスなどは金を出して買って聴いた。丁度レコードからCD へと移り変わる過渡期であった。

数年後レコード屋を辞めて主人と部屋を借りて学習塾を開業した。とはいえわたしは娘たちの世話でほとんど主人が1人で教師をした。これは結構儲かった。向こう二年分の家賃と光熱費等維持費を前納することで気楽に継続して営業を続けることが出来たし、成績の良い進学校を目指す出来る子どもたちをわたしたちは断った。そういう子どもたちの成績を伸ばすことはとても難しい。中程度くらいで、やれば出来るがなんだか勉強アレルギーっぽい学生さんは試験慣れするとすぐに点数を取れる。結果現れた数字が広告代わり。広告は一切打たなかったが口コミでそれなりに経営は維持出来た。

ある時ふらりと塾へやってきたのがM美だった。その時はもう高校へ進学してOBとしてちょいちょい遊びがてら顔を出すT子が連れてきた。M美は中学2年だったが学校へは全く通って居なかった。

M美は2歳から14歳までを乳児院で育った。2人の兄がいたがM美の話ではある時施設を脱走して行方不明。どうして貴女は脱走しなかったのかわたしが尋ねるとしたよ、でもあたしだけ捕まったの、とM美は笑った。

三女を出産したばかりのわたしは郊外に借家を借り、娘たちと赤ん坊と比較的静かな生活を送っていたが高校へ進学したかつての塾生が時折訪ねてくる。M美と出会ったのもそんないきさつであった。

14歳のM美は2歳の時に別れた父親に引き取られ施設を出た。そののちわたしはM美のケースワーカーとも会うことになるのだが父親はM美を家事などをさせる小間使いとして引き取ったらしい。M美は中年の女性のケースワーカーにある時から一切会わなくなり、何か異変を感じたケースワーカーがわたしの家にやって来た。

主人はM美を自宅に入れないようにとわたしにきつく言う。ここからは行政の仕事だと、我々は民間の営利目的の零細学習塾だ。君はM美の里親にでもなる気か。主人は譲らない。

わたしはM美の父親にも会った。M美は病んでいたがわたしたちは自分たちの子どもの世話を優先した。M美もそれは承知していたようだ。20代になり、兵庫県に住む実母に会いに行くというM美はわたしに様々な不安を上手に打ち明けた。

行きなよ、やっぱり会いたいじゃん、本当のお母さんだもんね。わたしは時々しか会えないM美にこむつかしい話はしたくはなかった。M美は実母の自営業を少しの期間手伝ったが結局戻って来て時折わたしに会いに来た。

恋人が出来た。一緒に暮らしてる。M美はわたしには良い報告しかしなかった。結局わたしは彼女からは辛い話はひとつも聞かなかった。

孤独のと闘いもあったろう。両親の裏切りを憎んだだろう。施設には私物はなかった(今は違うかもしれません)と聞いた記憶はあるがそれをM美がどう感じたのかをわたしは一切尋ねなかった。

M美はわたしの子どもたちを可愛がった。わたしが厳しいしつけをするときは娘の側に立ってわたしに反論することすらあった。わたしはそんな時ただただ沈黙した。黙って見つめ合うのだ。わたしの小さな娘たちとM美、そしてわたし。それぞれの胸中に浮かびくる思いがあるに違いない。わたしたちは立場は違っても自分の感覚を存分に味わう自由があるとわたしは考えた。

わたしにはまるで不安はなかった。正直M美をわたしの娘として正式に引き取りたいと主人に訴えたこともあったが生きて存命する両親を持つ未成年の里親にはなることは出来ない決まりだと主人に諭された。

ディックリーの「我我 你你」はM美の好きな曲だ。

わたしはもっと何か出来たのではないか。わたしは不器用であった。自分に自信が無く誰かに声高に正論を言うのがとても下手だった。正論は無闇に強いのだ。強い言葉は上から下へと落ちては人の心を容赦無くズタズタにする。正論がいつも人を救うとは限らない。少なくともわたしとM美を結びつけていたのはそんな歪んだ世界だったのかもしれない。