連載小説 小熊リーグ㊲

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その日引越しというほどの荷物はなく、彼女の身の回り道具を運んで来た運送屋のバンが行ってしまうと僕は部屋でウィルキンソンで一息ついていた。そして忙しくて出られなかった電話があったことを思い出してiphoneを見ると着信は父からであった。

僕は父からの留守電を聞き彼女と共に慌ただしく部屋を出た。早足で大学病院へと歩く。歩きながら彼女に父の留守電に新海氏が入院したと入っていたとだけ伝える。その時の留守電の内容はただそれだけで、僕たちは大学病院の救急搬送出入り口から壁伝いに歩いて集中治療室へと進む。

ICUのドアから出てきた若いドクターに新海氏のことを尋ねるとすぐに中に入れてくれた。薄いピンク色のカーテンを開けるとベッドには新海氏が寝ていて、付き添っていたのはマスターだった。新海氏は眠っているように見えた。

「父から電話が在りまして」僕がそう言うとマスターが立ち上がり手招きした。そしてマスターは腕組みをして寝ている新海氏を見た。僕たちもスタッキングチェアに腰掛けた。

「現像していたらしいんだ」マスターが言った。

「現像って写真を?」

「サキちゃんに聞けばたぶんいろいろと話してくれるんだと思うんだがな」

「咲子さんが一緒だったんですか」

「そうだ」

「倒れたんですか?脳卒中ですか?」僕はマスターに詰め寄った。

「意識はあるよ」ベッドで寝ている新海氏が言った。ひぃっと彼女が声を上げた。僕は新海氏を見た。彼はまだ目を閉じていた。

「どうしたんだ」僕は彼の体温を確かめるようにシーツに手を遣った。

「見えなくなっちまったんだ」マスターが言った。「突然さ、目の前が真っ暗になって何も見えなくなっちまってよ。サキちゃんはなんだか具合が悪くなっちまって、今は落ち着いてあっちのベッドに寝てるよ」マスターは黒い皮ジャンのポケットに両手を入れたまま肘で目の前のカーテンの方を示した。

「見えなくなった?失明したってことですか?」

「どうやらそうらしい」新海氏が言った。僕は立ち上がりカーテンを開け隣のベッドを見た。そこには咲子さんらしき小柄な女性が点滴をして眠っていた。

年配の看護婦がやって来て僕にご家族の方ですか、と尋ねた。僕が友人だと言うとカーテンから出て行こうとしたので僕は慌てて自分は家族のようなものである、彼女はどうしてここに寝ているのかと尋ねた。

看護婦の話では新海氏に付き添ってきて間も無く咲子さんは意識を失って倒れたという。調べると血圧は低く、血液検査の結果、極度の貧血であることが解り今は電解質を点滴中だと言う。本人の意識が戻り次第CTを撮りたい、胃腸のどこかから出血しているだろうと言った。

気が付くとマスターがそばに来ていた。マスターは看護婦に言った。

「検査は要らないって本人から言われてるんだ。胃癌だ。リンパにも転移してる。それから家族は俺ひとりだ。起きたら連れて帰りたい」

僕が呆気に取られているとマスターが眠っている咲子さんを見ながら言った。「サキちゃんは俺のカミさんの妹だ。カミさんも胃癌でな、やっぱりリンパに転移してな、死んだよ」

忙しそうにカーテンから出て行こうとする看護婦を僕はまた捕まえた。新海氏の失明について尋ねたかったのだ。看護婦はお待ちください今ドクターを呼びますので、とカーテンを出て行った。

長い時間を僕たちは沈黙していた。彼女はひとり咲子さんの方のカーテンに居た。僕たちは親族だけの結婚披露宴をマスターのお店ですることに決めていた。咲子さんは自分のお古で良ければ彼女に自分が結婚式で着たウエディングドレスを着てもらえないかと言った。咲子さんがこれまでに二回結婚しそして二回離婚していることをその時に僕たちは知ったのだった。

僕はマスターと新海氏のベッドの脇に並んで座っていた。夕方近くなってようやくドクターが来た。年配の男性のドクターだった。僕たちをカーテンの外に呼んだ。すると新海氏がゆっくりと起き上がり説明ならば自分も聞くつもりだと言う。僕はドクターを見た。ドクターが新海氏の肩を抱くようにして寄り添い頭痛は無いかなど幾つかの質問をしたあと新海氏はドクターに付き添われてICUから出た。僕は彼女に待っているようにと告げてマスターとふたりで廊下へ出た。

小さな会議室のようなカンファレンス室だった。パイプ椅子をそれぞれ広げて座る。新海氏は少しふらついていた。

「皮質性視覚障害でしょう」ドクターが言った。

「皮質性というと脳ですか?」僕は尋ねた。

「そうです。眼球や網膜には損傷が見られないんです。おそらく後頭葉皮質の神経障害です。強い衝撃で毛細血管に血栓が出来るということが分かっています」

「頭を打ったんですか?」僕は尋ねた。

「いえ、このように両目が完全に失明する症状は典型的に精神的なストレスが原因であると言えます」

「ストレス?」僕はマスターに支えられるようにしてパイプ椅子に腰掛けている新海氏を見た。すると新海氏が両目をゆっくりと開いた。ドクターは即座に椅子ごと近寄ってペンライトのようなものをポケットから取り出して彼の眼球を調べた。ペンライトを右に左に動かす。新海氏はまっすぐ前を向いていた。

「皮質性視覚障害は一時的に起こることもあります。楽観は出来ませんが視力が元通りに戻った症例もある。吐き気はありますか?」

新海氏は無いと首を横に振った。

ドクターはビタミンB等の薬物治療と同時に後天性視覚障害者専門のカウンセリングを受ける方が良いと言った。僕は彼が以前に統合失調症の診断を受けていること、精神薬は完全に離脱して資格を取りケースワーカーとして働いていることなどを説明した。

「カウンセリングなど要りません」新海氏が言った。「見えなくてもいいと思ってます。これでいいと思ってます」

僕には新海氏がそう言って薄笑いを浮かべたように見えた。