連載小説 小熊リーグ㊳

https://www.instagram.com/p/_k3HzAFg_k/

その時カンファレンス室の扉が開いた。白衣のパンツスタイルのキビキビとした動きの看護婦が入ってきてドクターに合図を送ると看護婦はマスターの顔をじっと見て、部屋の外で話したいと丁重に言った。

するとマスターではなく新海氏が静かに立ち上がった。マスターも立ち上がる。そして持っていたバッグの中から茶封筒を出してそれを新海氏の手に握らせた。新海氏がその封筒をドクターの座っている向かって前方に差し出して言った。

「彼女の作成した終末医療の委任状です。もしも彼女の意識が失われた時の依頼人はこの僕です。僕たちは婚約をしています」。驚いている僕を見てマスターは深々と頷いた。

「‥‥では行きましょうか」ドクターが僕たち全員に言った。僕たちは咲子さんのベッドまで早足で歩く。ベッドでは咲子さんが酸素マスクをつけた状態で目を閉じて横になっており、それはまるで眠っているように平穏な表情に見えた。僕たちはベッドを囲むようにして腰掛けた。

別の若い男性のドクターが、咲子さんが腎機能等の多臓器不全を起こしておりそれらが今後回復する見込みが無いこと、現時点で咲子さんの心臓はいつ停止しても不思議ではないことを僕たちに説明した。

新海氏がドクターに手渡した委任状には咲子さんが指定した代理人として新海氏の名前が書かれてあり、そこに新海氏の自筆のサインもあることからドクターが一切の延命措置をしないが本当にそれでいいかと新海氏に尋ねた。

新海氏は見えない目で咲子さんの寝かされているベッドの方を見たまま「はい」と返事をした。マスターが彼の右手を取り、その手を咲子さんの左手に重ねた。新海氏がもう片方の手も差し出して重ねた。僕は思わずすぐ隣に座っていた彼女の手を握った。彼女は真剣な表情でゆったりとした呼吸をし続けている咲子さんを凝視していた。

どれくらいのあいだ僕たちはそうしていたのだろう。咲子さんの意識はそのまま戻らなかった。咲子さんの死が告げられると彼女がわあっと言って僕にしがみついて泣いた。マスターは腹を撃たれたように腰掛けたままで身体をふたつに折り、苦しそうにうめき声を上げた。

若いドクターが新海氏を立ち上がらせ、咲子さんの顔のすぐ近くに引いて行き、彼の手を咲子さんの頬に当てさせた。新海氏がありがとう、とお礼を言うとドクターは黙ってカーテンから出て行った。

新海氏は決して泣かなかったが身体を小刻みに震わせて小さく「ありがとう」と言った。咲子さんは眠っているようにしか見えなかった。もしも死が長い眠りであるのなら僕たちはどんなにか救われるだろう。

死者にお別れを言うのはおやすみなさいを言うほど簡単なことではないのだと僕は思った。