北方出版社 松本久喜「在來馬」

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昨日今日と2回「南極料理人」を観た。堺雅人演じる南極料理人「西村さん」は実在者で西村淳さんと言ってわたしは知らないのだが北海道では大泉洋の次くらいに有名でTV等にも出ていたらしい。西村淳さんの本は一冊だけ手元にある。西村淳さんは本を何冊か上梓している。

映画「南極料理人」で観測所滞在中に夜な夜なインスタントラーメンを食べ続け、貯蔵している全てのインスタントラーメンを食べ切ってしまった隊長(きたろう)が真夜中堺雅人の部屋を訪れる。「眠れないんだ、僕の身体はラーメンで出来ているんだ」と泣くシーン。昨日も泣けたけど今日もまた泣けた。

わたしはきたろうさんはシティボーイズの時代からのファンだ。だけどシティボーイズでは大竹まことが大好きだ。きたろうさんは真面目なインテリである(会ったことないけど)。実はわたしの整形の主治医がきたろうさんにそっくりなので画面に出てくるとつい応援してしまう。

堺雅人が調査隊の別の研究者の提案でペーキングパウダーをカンスイ代わりに醤油ラーメンを作り上げるエピソードは実話で、映画では短くまとめ上げているが実際には試行錯誤があった。西村さんはターメリック麺なる麺も南極観測所の厨房で作ったりした。

ハリウッド映画やヨーロッパのオシャレな映画が好きな賢いわたしの友人たちは「南極料理人」とか観るとかもうあり得ないからさ、とわたしを馬鹿にするが、大映全盛期に育ったわたしは邦画は断然感情移入をし易く感動もそれは大きい。そしてこの役は堺雅人以外は考えられないと見るたびに確認する。劇中で塩むすびが握れる男優は多くないだろう。佐藤浩市ジョニー・デップでは出来ない役である。

前書きが長くなった。この馬の本は昭和23年発行の古書である。パッと見は固そうな字面だが内容は良い。北大の図書館で見つけて読み始め、お別れ出来ずコピーして持ち帰って来た。

去年辺りから対馬馬のことを調べている。元はと言えばロバだ。何故日本にはロバが居ないのか。始まりはそこだった。

日本の在来馬の體高(背中の高さ)は100〜130cmと低い。だからつまり日本の在来馬は家畜としては日本以外の国々でいうところのロバ的存在であったかもしれないとわたしは考えている。日本国は明治時代にロバの輸入を禁じる法律を作ったからロバが日本に居ないのはそんな理由もある。

生きているロバの個体に会うことはなかなか難しい。手持ち無沙汰なわたしはロバよりは個体数の多い日本在来馬と会うことに目標をすり替えてしまった。ロバのパン屋だってあれは木曽馬が引いているのだ。

わたしは対馬が好きなので対馬馬が気になる。対馬馬の歴史は古い。寿永三年(1184)二月、源平合戦一ノ谷の戦いのひよどり越えで活躍した源義経の70騎は対馬馬であった。「対馬の人たちがそう言ってるんですよ」とその筋の本に正田陽一は書いている。

日本へ馬が入ってきたルートは大きく分けて三つあり、まず沖縄〜九州というルート。このルートで100cmと小さめの四川馬が入って来た。またひとつはモンゴル〜朝鮮〜九州のルートで、ここからは130cm強の蒙古馬が輸入された。もうひとつはロシア〜北海道のルートである。北方の在来馬のルーツは所論ある。本州からやって来た人間が放置していったという説もある。

16〜19世紀(室町から江戸明治)に掛けてはイタリア、ポルトガルから秀吉や伊達政宗なんかがアラブ馬なる馬を数回輸入した。徳川はオランダから馬を輸入したし、文久元年(1861年)には「ナポレオン三世アラブ馬牝牡26頭を幕府に贈る」という記録がある。

江戸時代はそうでもなかったと思うのだが馬の歴史は戦争の歴史である。

ナポレオン三世が徳川に良かったらどうぞなどと馬を贈り物にしているのだ。男たちは「やっぱ馬だよね〜」と互いに侠気自慢をし合ったに違いない。

話は大きく逸れた。話を一ノ谷の戦いに戻そう。奥州平泉で育った源義経はひよどり越えでとっておきの忠実な馬を使ったはずである。奥州平泉は良馬の産地だ。奥州の馬は蝦夷(えみし)馬なので対馬の雰囲気とは繋がらない。

正田陽一は対馬馬の優れた能力について強調したかった。小左々学という学者は日本在来馬は個性豊かで性格に著しく個体差があり牡馬は集まるとすぐ喧嘩になるので騎馬軍団を形成するのは難しいと書いているが、正田陽一は対馬での調査では30度を越える傾斜の山岳を悠々と上り下りする対馬馬を目の当たりにしてこれはひよどり越えだと直感したらしい。

サラブレッド、アラブ馬、日本在来馬の体高は165cm、130cm、110cm。詳しく調べればわかることだが源平合戦では武将たちは間違いなくポニー的な小型馬に跨ってやあやあと戦ったのだ。

正田陽一の対馬馬へのこだわりは強いものがあるがそれは彼が皇族と近縁だからかもしれない。「経済性の低さ」だと対馬馬等の日本在来馬の減少を彼はひと言で済ませている。しかし対馬へは何度か渡っては調査をした。

さて、源平合戦のひよどり越えの時に下り坂で馬を担いだ源氏の武将が実在するという。この武将は馬をとても愛していたので急な下りで馬が転げ落ちるといけないとよいしょっと馬の前脚を左右の肩に一本ずつ担いで降りたという。戦いのさ中だ。自分の命すら心もとないという時に馬をいたわった優秀な武将として地元では有名だ。

正田陽一は対馬へいった時に自分だったらこの馬を果たして肩にかつげるだろうかとじっくり考えてみたと書いていて、あーこれは出来るわ、とその筋の本で結論している。決め手は後脚の柔軟性だとある。

わたしは担ぐ戦人も苦労なら大人しく担がれた馬もまた素晴らしいと思うのだ。

大丈夫だからさ、ちゃんと掴まってよ。

ひひ〜ん(馬語でたぶん『了解〜』)。

いいなあ。いい景色だなあ。

対馬行く。

絶対行く。