伊吹山がようやく白くなってなとタクシーのおじさんが呟く。明日からまた降るかなと返すとどうかねと笑った。正面玄関かい?うん、そうだよ。病棟やデイサービスなど幾つかの施設が併設されている病院なのでタクシー降り場は他にもある。
思春期?
もしもわたしという人間がもう少し強くてもう少し大人ならば良かった、とわたしは泣いた。すると主治医は思春期の女の子なんだからそこんとこは仕方がないと言ったのだ。
そうか。だいぶん遅かったけれどこの不安定は思春期のそれだったのか。だから悩むことはない、そのままでいいと主治医が言った。心頭滅却すれば火もまた涼し。多彩な感情や突飛な発想に翻弄される悩ましい思春期など自分には無関係だと考え進んで来た。
帰り道デパ地下のベーカリーでバケットを買う。不意に涙が込み上げた。思春期オメデトウという脳の声。パトリックの阿呆。焼けたパンのいい香りでフロアはまるで夢の国。
切符を買って混み合うコンコースを横切って歩く。全然上手く進めない。ぶつかってばかりだ。わたしは益々泣けて来た。すいません。何しろ当方思春期なもんで。
ピアノ弾けば?帰り際主治医が言った。
どうやって?わたしはちょっと可愛い顔になる。楽器屋の店頭にあるお試し用のグランドピアノとか弾きまくればええやん。何軒か楽器屋を梯子したったらたっぷり弾けるで。
阿呆か。あのね、あたし大人だから。店員やって来てピアノ買いますか?ってなるでしょう。わたしは噛み付く。あははは。主治医が笑った。
今からレッスンするのならちょっと弾いてみたい曲がある。駆け込んだにもかかわらずタッチの差で行ってしまった鈍行を見送りながらふと考えた。
ワーグナーのジークフリート牧歌だ。YouTubeで早速聴く。グレン・グールドが死ぬ1ヶ月前にこの曲の指揮をしている。彼はオーケストラをピアノ版に編曲して弾いたりもした。
この美しい室内楽はワーグナーの書いた妻への贈り物の一曲である。しかも不倫だし、しかも友人の妻だし。いやいや有りえへん。
ワーグナーってなんだか一筋縄ではいかない人生だった。ごめんなさいの人生だった。
ではではもうそろそろグレン・グールドを聴こうではないか。YouTubeを検索。
これだ。この乾いた硬質な響き。もしやこの宮本武蔵の初恋とはこのグールドのこのピアノではなかったか。
楽器屋であるぞ。
そうだね、やっぱ楽器屋行ってとりあえずグランドピアノに触ってみようか。
http://youtu.be/ds7sikMNoCk ワーグナー、綺麗ですよ。 http://youtu.be/FIjesjmMq_g こっちはグレン・グールドです〜