藤原書店 李承雨(イスンウ)「生の裏面」

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数日前に図書館から持ち帰った本をぱらぱら。思っていたよりも李承雨の文はわたしの脳に柔らかく染み込んでくる。

何かを脳から外に出すことはそれを長く隠し続けていることよりもずっと自然な成り行きだ。尋ねたりそれに真摯に応えたり、それとなく推察させたり、記憶を取り戻させそうした状況から事実を理解させたりする。小説作業とは実はそういうことなのだ。

わたしは主人公を強い視線で追い続ける。わたしは可哀想な主人公と彼の可哀想な父親やまた同様に可哀想な彼の母親に対して、もはや元居たはじめの場所に戻れないくらい強い感情を深入りさせてゆく。ドキドキと心臓が高鳴るので本を閉じて部屋を少し歩いたりする。

韓国語には敬語があるが、この小説の要所要所には「〜でなければなりません」とか「〜を知っていますか?」という幼い子どもを諭す時の丁寧語が使われていて、これらの丁寧語を発する時には必ずそこにあるもの、それは雫が上から下へとぽたぽたと落ちるかのような、この世界のいわゆるひとつの暗黙の了解というものに、主人公はとうとう最後まで「?」を抱き続けていた。

わたしもそうだ。悲しい過去を思い出す。それがもう過ぎた過去のこと、周知の真実であるにも関わらず、今もまだ高い空を睨みつけている。落ちて来た雨粒に当惑し濡れた額を手で拭いはするが降り出してきた雨を許さないのだ。そんな心がわたしにはある。

一方でわたしは「〜でなければなりません」と丁寧にわたしの中の幼子たちを諭す大人になっている部分もある。

今日もわたしは毎度お馴染みMr.Childrenを聴きながら、フルパワー脳ぢからで実際は有りもしないラベンダーの芳香で気持ちを落ち着かせる。簡単なことなのだ。慣れなのだ。わたしは長い人生でわたしの中の悲しみに慣れる術を身に付けてきた。

この数日でわたしはこの李承雨と並行して宮脇俊三の鉄道エッセイを4冊とドミニク・チータムという人の書いた「くまのプーさん」の評論を完読した。

李承雨を読み続けることが怖かったのだ。何が怖いんだ。鏡を見てみろ。もうすっかり年寄りだ。韓国じゃちょっと嫁や婿をしばき倒して威張り散らしてるリアルハルモニではないか。

それなのに、婆アのわたしの中にまだ涙があるというのか。阿呆らしいことだ。全く付き合いきれない、やっていられない。白黒写真の李承雨を見ろ。彼は堂々としているではないか。格闘しているではないか。立ち向かっているではないか。

情けない。わたしは時おり宮脇俊三と一緒にヨーロッパの特急に乗りハンガリーやフランスを駆け抜け、マレーシアを西から東へ旅をした。そして腕にはボロいくまのぬいぐるみをひしと抱いてけして離さない。宮脇俊三もミルンもシェパードももう死んでこの世には居ないというのに。

忌々しいあの墓に火を放て。空高くそびえるあの峠を超えてゆけ。わたしはひとりではない。たくさんのわたしを連れてゆけ。小走りで。雨の中を。