多重人格NOTE その19 統合とは何か①

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解離性同一性障害(DID)の回復過程のひとつに統合というものがある。DIDは脳内に何人かの人格を乱立させて過ごしている。統合という現象は幾人かの人格が合体することと説明されているが当事者として統合とは幾人かのお馴染みさんとのお別れである。

では何故統合というのか。結晶化した脳内人格たちは個性豊かである。それぞれに一長一短があり、時にこちらを立てればあちらが立たずで双方の利害が対立する局面が生じることがある。厄介ないざこざが消えることで脳内がひとつにまとまる。統合にはそんな概念が含まれている。

合理的に人格を出し入れ出来るなら苦労はない。もちろん命の危険に晒されていたりすれば話は別である。倒れても倒れても起きあがるゾンビ宜しくDIDであればこそのパワーでステージをクリア、素知らぬ顔で突き進む。当事者としては極めて官能的な、主観の領域でしか起きた事柄を解釈できない。

統合は望ましいとされている。統合か共存か。専門書等には無理に統合を進めなくても良いなどとあるが進めるもなにもDIDの脳内は実験室ではないから人格たちをフラスコに投じてシェイクすれば首尾良く混ざるというものではない。

わたしの脳内人格数はこの数年で劇的に減少した。メイン人格と思われる面々が次々に姿を消してゆく。交代人格とは過去の出来事が壮絶なあまり封印せざるを得なかった記憶のタグであるので、人格の消滅とドラマチックな記憶の回復はセットになっていた。

脳内フォルダーは容赦なく開かれた。時系列に並べられ、取り返しがつかないこと、今なお何か手を打てることなど様々だ。

整合性が有り過ぎて胡散臭いようだがそんな作業を取り仕切るためにこの数年で新しい人格が生じている。そこはなにかと解離性同一性障害なのである。

かつてわたしに平安な時代が訪れはじめたころのことだ。子どもたちと夫との円満な日々の暮らし。これまでDIDの人生はまるで障害物競争であった。何か事件が起こるのではないか。DIDにとっての少し長めの平穏はそんなサインだ。

だからそうなのだ。恐怖、不安、身体の痛み。わたしのそれらのスケールはいつ何時でも最大値を示す用意が出来ていた。悲しいことだ。大げさなことだ。そして疑心暗鬼、偽りの情報に脳内が撹乱され続ける。

大雨の中を歩くためのレインコートを着たとする。ところが外へ出たら空は気持ちよく晴れていた。わたしはレインコートを脱ぎ、またいつかの豪雨に備えて畳んで仕舞う。

最初に消えていったわたしの脳内人格はこのレインコートのような人だった。思えばわたしは土砂降りの中を歩くことが多くてレインコートにはいつもお世話になったものだ。彼女が消えた日に、わたしはどんな風にレインコートを仕舞ったのかも今となっては思い出せなくなっている。

スピッツの「トビウオ」という曲があるが、わたしはこの曲が好きでウクレレで弾き語りする。”波に呑まれトビウオになれ”というやつだ。”直接触れるホンマもんのエクスタシー”とか”有難うのenergyドでかく描いたれ”とかヤケクソ気味の歌詞がまた良い。https://youtu.be/JRmbS6RIyV0

きっちりはいかない。彼女が消えてから2年が経った。統合は淘汰ではない。

土砂降りはいつしか南国のスコールに代わり、わたしは美しい雨上がりの空をそのようにして知った。

わたしは当初彼女を探し続けていた。しかしわたしは今や彼女であるし、彼女はわたしと言ってよい。この平安がかき乱されても今はもうあんまり驚かないのだ。

まあ今んとこまだ波乗りは続くしね。