ギュンター・ファイファー著「シュタイフの100年」

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わたしは本を手に取ると必ずすることがある。その本がいつどこで印刷されたのか、どんな名前の会社が出版したのかを調べるということである。

わたしは以前自費出版を手掛ける印刷所のアルバイトをしていたことがあるが、一冊の本が出来上がるまでにそれは沢山の人の働きがあるということをそこで学んだ。

丁度アナログからデジタルへ、印刷技術は過渡期であった。文字を書かないお年寄りから言葉を聞き取り活版印刷で印刷された試し刷りの校正をする傍ら電子化文書の勢いは誰にも止められない。印刷会社は大きく様変わりしていった。

そんな経験を経て、わたしは大都市の名のある大手出版社の本にそれまでのような魅力をあまり感じなくなった。いつどこでどんな経緯で印刷され出版されたのか。一冊一冊の本の個性にそんな事柄が影響するように感じている。

シュタイフの100年」は英語の題は「100 Years Steiff Teddy Bears」である。これはシュタイフ社がテディベアを制作し始めて100年になる西暦2002年の1年前に出されたシュタイフ社オフィシャルブックである。

日本語で訳されたものがなかなか見つからないまま、英訳を見つけて購入した。著者のギュンター・ファイファーという人がどんな人なのかもわからない。一般企業のオフィシャルブックというものにあまり良い印象をもっていなかったわたしは購入したものの正直あまり期待はしていなかった。

ところが本の内容は予想に反するものであり、わたしは思い切ってギュンター・ファイファーの最新のシュタイフ関連の著書のドイツ語版を購入した。Amazonの頁は英語表記であったが発注を知らせるメールは本はフランスから来るよとあった。もう何でもいいや、とにかく早く読みたいのだ。

わたしの英語読解力は甚だ怪しいが半年ほどドイツ語ばかり夢中で見ていたおかげで英文はどこか懐かしく思える。その代わりというか、なるべくしてというべきか英単語を日本語に訳さないで読んでいるのだ。つまり大いなる英文の海を漂うように読むのである。

難解な、抽象的な説明では英文というのは果てしなく長文になってゆくように思う。そして本来の英語世界というのは解像度をそんなに上げないでも物事を説明してみせる、そんなハイパーな世界なのかもしれない。いやわたしに様々な英文修行が足りないだけということだけれど。

決定的なる語彙力の乏しさと安易なイメージで読む進む悪い習慣も手伝って次第に脳内は生彩を欠いていく。苛々が治らない。1ページ辺りの文字が多過ぎる。それはそれでお得だけれどそのために活字が恐ろしく小さいのである。

わたしは数日で限界となり、今日は朝イチで全ての頁を拡大コピーするためコンビニへと出掛けた。

ドイツ語は語尾変化というお化けはあるが、名詞の頭を文中でも必ず大文字にするし、ひとつひとつの単語には強い個性があるように思える。反面英語は抽象名詞が恐ろしく似通っているように思えるのだ。

おおっぴらに言えたことではないがわたしはこれまでドイツ語の文法を学んだことはなく、辞書を引きながらポツポツと読むことが精一杯、独作文は全くできないと思う。

コンビニの帰りに本屋へ行き、わたしはドイツ語の文法書を購入。その文法書は三千円もしたがその出費よりも痛かったのはもっと早くキチンとドイツ語を学ぶべきだったという後悔でいっぱいなのだ。ギュンター・ファイファーは絶対にドイツ語で読むべきなのである。

本屋の隣のマクドナルドが改装中で閉店なので、普段は入らないカフェで休憩。モーニングの時間帯でカフェは混雑していた。なんとかテラス席を確保して椅子に腰を下ろすと一匹の柴犬が親しみを込めた表情で近寄ってきた。

隣のテーブルの男性の犬である。

わたしは椅子から降りてしゃがみこんでその柴犬をいつまでも撫でた。柴犬はよく躾けられ愛されているおとなしい犬だった。

わたしは疲れていた。わたしは英語でもなくドイツ語でもない、ただ犬を見つめ続ける。

もしかしてリヒャルトが求めていたのはこれだったのかなあなんてことを思ったけれどとにかく本をね、読まなくちゃ、なのである。