fridayusaoのブログ〜丘の上から

統合失調症でDID、読書と音楽鑑賞の日々の徒然。

中山道〜妻籠宿の巻 伝馬制のあれこれ

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わたしの友人の1人は長野県のへんぴな村で育った人であるが現在は嫁ぎ先のそこそこ田舎ではあるが不便のない町中で長く暮らしている。彼女は年間何十万人もの観光客が訪れる妻籠馬籠をまるで好かない。

 

寛文6年(1666)妻籠宿は伝馬30疋29人とある。このうち純粋に伝馬役・七里役として働いていた馬は14疋。また別に5疋を年寄役と七里飛脚・歩役として数えているが年寄役というのは年を取った人ではなくて幕府の役人とことだと思われる。往き来に使っていたのかもしれない。疋というのは匹と同じで馬の数である。

 

馬の種類はまだわからない。木曽馬で間違いないと思うのだがはっきりそう書かれた資料がない。伝馬は幕府が常備した馬たちだから何馬を何疋という資料がきっとどこかにあるはずだと思うのだが。

 

江戸時代の伝馬制は合理的である。馬を継ぎ送りして荷物を運ぶというシステムはその光景を思い浮かべるだけでも楽しい。馬の管理は大仕事かもしれないし、馬いっぴきいっぴきは性格も異なり実際は苦労が多かったかもしれない。

 

そうだとしてもそんな風に沢山の馬たちが頼りにされているということがなんだか嬉しい。日本にはロバがいない。輸入禁止令は明治時代であるから、おそらく木曽馬等の日本在来種がロバに近い性質なのでロバは必要ではなかったのかもしれない。

 

ナポレオン(何世とかそういうこと知りませんが)がピレネー山脈を越えた時、絵画では猛々しく白馬を駆っているけれど実際はロバだったというのが周知である。ロバたちは高所や急峻への恐れを主人への忠誠心で克服するのだ。

 

明治25年馬車道として賤母(しずも)新道(後の国道19号)が妻籠馬籠間を迂回して敷かれると妻籠馬籠を抜ける中山道は里道に格下げされ、輸送荷物は激減、その年から道路の補修は村費負担となった。

 

明治44年中央本線が全線開通。妻籠宿の北にある三留野(みどの)駅がこの辺りの交通の拠点となる。ただし村役場と郵便局は昭和36年までは妻籠にあった。

 

昭和16年里道から県道へ格上げ。その頃の宿泊客は伊那谷から峠越えをしてくる修学旅行生徒と製糸工場の女工たちと行商人たち。お大名は来なくなっても妻籠宿は生き続けた。

さて昭和51年9月に妻籠宿重要伝統的建造物群保存地区として全国で初めて選定を受けた。この選定は妻籠宿の他に6地区あった。その選定に当たり妻籠宿は電灯柱(電信柱ではない)と電話線を町裏に移している。電線は美観を損なうということである。

 

つまりそれ以前には電気が来ていたということだ。妻籠宿は保護地区として選定後、敷地内の建物の新築、増築、改築、移転、除去、修繕、模様替え又色彩の変更など外観の変更、ひいては敷地内の土石植物等の採取も許可無くしては行なうことが出来なくなった。

 

天保9年(1838)の「木曽巡行記」によると妻籠宿は馬籠宿よりも寒かったらしい。夏から秋へ、秋から冬へ。妻籠宿に是非とも宿泊滞在をしたいものだ。

 

妻籠宿を嫌う友人を誘ってみよう。

 

何と言っても彼女は中山道ネイティヴなのだし。昔の暮らしが尊ばれるのは何故なのか、不便な暮らしを大切に保存するのはなにゆえか。彼女の言葉を聞いてみたい。でもそんなこ難しい話をしたらヤダよ、って言われちゃうんだろうなあ〜

(中央公論社 児玉幸多「中山道を歩く」、東京堂出版 児玉幸多「宿場」、日本交通公社 今井金吾「今昔中山道独案内」を資料とさせて頂きました)