誠文堂新光社 口尾麻美「トルコのパンと粉ものとスープ」

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飲んでも眠れないならと8月の末頃からロヒプノールを飲まなくなった。眠れないのは変わらないが3日くらいで睡眠負債は完済して進んでいるような感じ。ロヒプノールが効いているときの眠りは強い深い眠りでべったりと脳をぬりつぶすようなものだった。

浅い眠りで奇妙な夢を見る。夢のイメージが強過ぎて目覚めてもぼんやりとまだ夢の中にいる。一昨日は懐古調の白い古い建物を延々と見て歩く夢をみたが夕べは洲本(すもと)の夢をみた。さっき目が覚めてああ洲本の夢をみちゃった、やっぱりあたしいつか洲本へ行ってみたいなどと考えた。

寝ぼけた脳でわたしはヨーロッパの白い町洲本憧れるわなどと呟き、あれやだ洲本って淡路島じゃんかと気付いてちょっと笑えた。やっぱりなんか薬飲んだ方がいいのかな。

この頃は脳が新しい情報をなかなか受け付けない。阿部謹也という歴史学者が「何かが解ったという時は自分が変化する時」と書いていたがなるほどと思う。

年をとる毎に頑固になる面があるかもしれない。変化をしないのではなくて新しい情報を得た脳が自動的に要らないものを排除するのだ。新しい何かを得たのち脳内が簡素になっていく。思い切って削り落とした木彫の一面みたいに。

削り落とした木っ端をもう思い出すことはない。思えば頑張って少しムキになって思い出していたのはそれが去りつつある証拠だったのかもしれない。かつての重要人物もやがては過ぎ去ってゆく。

反対に新しい情報を得てさらにリアルに近づいてくるイメージもある。

高校の時、数学の授業で教員がこんなことを言った。我々は完全な球体や完全な立方体を脳のどこかで知っているけれど自分では作れないのです。たしかそんな言葉だった。計算式はこうです、数字で表すことは出来るのです。教員はそんなことを言った。

いつかどこかの音楽家がクラシックの古典派とロマン派を比較してクラシック音楽というものはこうして発展したと言っていたがそれは少し違うとそのときも思ったし今もそう思う。

発展したように見える構造の小さな変化はきっと必然だったのだ。何故なら古典派もロマン派も人間の造形だからである。

バッハを音楽の父だというけれどバッハも人間だった。バッハを古い音楽と言っていいだろうか。もっと古くから音楽はあったのだ。

トルコのパンの本をこつこつ読む。古くから作られているパンもあるし最近食べられるようになったパンの説明もある。

パンもスープもヴィルトゥオーゾを目指している。

わたしがいま完全なパンを焼けないのだとしてもそれは完全なパンは存在しないということではない。そんなことを思う。