小沢健二/痛快ウキウキ通り

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数日前から再びボリス・エーデルを読みはじめた。リヒャルトが見た熊はボリス・エーデルの熊と同一であるということがなんとなくわかっていたのだがボリス・エーデルの自伝を読むのがどうしても辛かった。

少し読んでは本を閉じる。特に厳しい景色ではないのだ。自分でもわからない。幼いボリス・エーデルがその身に堪え難いほどの悲しみをたたえてまごついている。

ジプシーズを聴いたりランニングで汗を流したりするとボリス・エーデルをちゃんと読めるとわかった。早くまとめてしまいたい。もう彼のことは通り過ぎてしまいたい。

一方で最近頻繁に思い出す彼のことを今日も考えている。わたしは中学3年、夏休み明けの9月のことだ。音楽の教員に呼ばれて音楽室に行くと教員は分厚いスコアをわたしに手渡した。それは市の合唱コンクールに参加する合唱部の自由曲のスコアだった。

わたしは完全なる帰宅部であり当時は普通の不良であり残念な中森明菜であった。教員はわたしにコンクールで伴奏をしてくれないかと言ったのだがわたしは一瞬戸惑った。合唱部には学内で有名なちょっとしたピアニストが伴奏要員として所属していた。彼女の母親は音大の講師であり、彼女は学生ながらも既に将来を期待された才能溢れる人だったのだ。

わたしの中学の合唱部は伝統的に県大会へ出場するほどの名門であり学校としての期待もある。聞けば天才ピアニストの卵はたいへん繊細な精神の持ち主で夏休みが明けてから1日も登校していないらしいのだ。

このままでは11月のコンクールに間に合いそうにない。よしんば当日伴奏者不在というのは最も避けたい、どうか貴女は当日の控えとしてこの譜面を練習しておいてくれないかと教員は言った。もちろん毎日練習に来て伴奏を弾いてはくれぬものか。

そうかそういうことならとわたしはひき受けた。わたしは正直な気持ちその役が嬉しかったのだ。その教員のことはけして嫌いではなかった。練習へ出向いてみれば何人かの顔馴染みのクラスメイトもいて雰囲気も良かった。自由曲はチャイコフスキー組曲くるみ割り人形』。美しく弾き応えのある曲が沢山あった。

教員に呼ばれて職員室へ行くと今日の練習は体育館の舞台でやるからこれをお昼に放送室へ届けて欲しいと言う。昼が来てメモを持って放送室へ行く。放送室は職員室のその奥にあり、消音のための分厚い鉄の扉を恐る恐る開けるといちめんに機材のならんだブースの端に同級生のSが1人で座っていた。

猿これよろしく、わたしはSにメモを手渡した。

放送部のSは昼は放送室で給食を食べていた。わたしはSのことを小学時代から何故か猿と呼んでいた。彼が猿に似ているというわけでもなかった。そしてSのことを猿と呼ぶのはわたしだけだった。猿はわたしからメモを受け取ると放課後の合唱部の練習は体育館のステージで行われる旨校内放送を掛ける。そして振り返りわたしの方を向いてニヤリと笑った。それから猿にメモを手渡す係がわたしに任じられ、昼になるとわたしは放送室で猿の仕事ぶりを眺めた。

コンクール当日正規の伴奏者である悩めるピアニストは果たして登校した。そして伴奏者を首尾よく勤めあげることが出来た。教員は喜んでいた。

リハーサルでわたしは彼女の演奏を聴いて驚嘆した。とても上手かった。その演奏はわたしがほんの数年の付け焼き刃で身につけた適当極まりない演奏とは雲泥の差を感じさせる本物のピアノの音だった。

11月に校内の文化祭があり合唱部はその演目にコンクールの曲を含めた10曲ほどを披露することになっていた。わたしは伴奏を辞退した。わたしの存在はかえって彼女の不登校に繋がるのではないかなどとそんなことをわたしは説明したが本心では彼女の演奏に圧倒されてあの日からピアノを弾く気は全く失せていたのだ。教員は了解した。では今日の練習は体育館でと教員はわたしにメモを手渡した。わたしは伴奏者こそお役御免となったものの連絡係は継続することになった。

その日放送室で猿にメモを手渡すと猿はわたしに今日はオマエが話せと言った。勝手知ったる放送室のブースのスイッチをパチンと下ろす。わたしはマイクに向かってメモを読んだ。

猿は素知らぬ顔をして部屋の隅で給食を掻き込んでいた。わたしはなんとも不思議な気がした。わたしは自分で自分の声を聴いていた。校内ばかりかスピーカーを通して稲刈りを終えたばかりの田園にまでもわたしの声は低く放たれているのかもしれない。メモを折って閉じる。パチンとスイッチを上げる。わたしは鼻の穴を膨らませ猿と顔を見合わせた。

放課後は教員から当日の照明と音響を頼まれたという猿をわたしは手伝った。スコアとは別に猿が手作りした台本を受け取り、曲終わりと曲始めに舞台の反対側で待機している猿に合図を送る。

その日の練習終わりに未来のピアニストはわたしに当日までの伴奏を替わって貰えないかと持ちかけてきたけれど悪いが猿を手伝わねばならないとわたしは笑顔で首を振った。結局その天才は当日まで不登校だったのでわたしは伴奏しながら猿にキューを出すという荒技で舞台稽古をしのいだのだった。

文化祭当日のことは何故か思い出せないが放送室の猿のあの笑顔を今も忘れない。そしてわたしの適当なピアノ演奏の癖は今も直らないのだ。