理論社 ボリス・エーデル「猛獣使いの回想」タカクラ・タロー訳

f:id:fridayusao:20160919174623j:plain

https://youtu.be/NGFToiLtXro

(フォーシーズンズ/君の瞳に恋してる)

診察周期は30日なので、だいたいそんな感じに調子が悪くなる。今日も頭の調子はすこぶる悪い。走っても眠ってももう駄目。そんな時はとにかく出力アウトプット。ポジティブポジティブ。わたしが貧しさを知らないのはそれがわたしには当たり前のことだったからかもしれない。どこの家にもある玄関マットを生まれてはじめてみたのは12歳の時だったが、これがいったいなにをするためのものなのかとしばらく考えた日のことを今も覚えている。

ここ数日Tのことばかりを思い出す。Tの家には家具がなかった。Tの家族はたしか林檎箱でご飯を食べていた。Tには両親がいなかった。そして親代りの親戚もひどく留守がちだった。Tはたいへんなボロを着ておりTの体はいつも臭かった。

あの台風の日、Tは大きな黒いコウモリ傘をさしていた。わたしもTも悲しいほど小さな子どもだった。一本のコウモリ傘をさし、ふたりして雨の小道をとぼとぼ歩いていた。それは水溜りだらけの凸凹の泥道だった。

やっぱり来ないんじゃない?Tがわたしに言った。いや来る、絶対に来る。わたしは言った。わたしはその日Tの家に兄が火をつけに来るのを知っていた。夕方、雨も風も強くなったころだ。ガタガタと異様な物音がしてわたしは外へ飛び出した。そこには兄が立っていた。

わたしは夢中で兄の手を取る。兄は無表情に小さな手を開く。その手のひらにマッチは無い。わたしの手を振り払い兄は雨の中に踊りだして行った。わたしは嵐の中を駆けてゆく兄の背中を追いかけた。壊れそうなあのあばら家にTをひとり残し、わたしも豪雨の中へ走り出た。

細い角材の骨にトタン板を張り合わせただけのちっぽけな小屋だけどあれはTの家だった。だけどあの日物凄く強い風が吹いてあっという間にTの家の屋根が飛んだのだそうだ。Tの家はめちゃめちゃに壊れてしまった。

Tの家とわたしの家は向かい合わせに建っていた。元はTの家が建っていたその場所は、あの日以来空き地に変わった。季節が変わり小さな草むらには春が来てなずなや土筆が青々と茂った。そのころわたしの家では一斉にウジ虫がわいたものだ。秋に来た台風で床上浸水をして何日も汚水に曝された家は皆床や壁にウジ虫がわく。やがてウジ虫はサナギになり成虫になる。

幼いころいろいろな物に火を点ける遊びは兄とわたしのささやかな楽しみだった。でも何故兄はTの家に火をつけるなんて言ったんだろう。今日は曇り空を見ながらそんなことをずっと考えている。

ボリス・エーデルを読むとTを思い出すのは何故だろう。あの時わたしとTは線路の近くのトンネルの中で捨て犬を見つけた。茶色い仔犬だった。

わたしとTと兄。じっさいわたしたちは捨て犬みたいなものだった。

今日も一日終わりました。ボリス・エーデルで日が暮れる。秋の夕暮れに助けを求める子どもの声がする。Tか、兄か。それともわたしか。