青土社 イザベル・フォンセーカ「立ったまま埋めてくれ」くぼたのぞみ訳

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「立ったまま埋めてくれ」はブルガリアの詩人マヌシュ・ロマノフの言葉である。彼はロマである。

ペトコ・トドロフ「熊使い」を読んだのはもう何ヶ月も前のことで図書館で借りた「ブルガリア短編集」にあった。ペトコ・トドロフブルガリアの中堅都市エレナ生まれ、父親はチョルバジイと呼ばれる富裕層である。ペトコ氏はフランス留学をして劇作家になるも37歳でスイスで亡くなった。

そもそも日本で読める東欧諸国の小説は限られているのだがこのペトコ・トドロフは1879年生まれ。リヒャルトがテディベアを製作した1902年当時は23歳。ヨーロッパの銀座通りにもいた時期があるようだ。この短編小説はリヒャルトと同時代の熊作品なのである。

「熊使い」という短編は驚くほどわたしの脳内に強く印象に残る小説だった。先入観ではない。たった一遍の短編で何かを語りたくはないと本は図書館へ返してしまったのだがいまでも本文をそらんじているほどなのだ。

ブルガリアの田舎のそれは貧しい村の話だ。貧しいというのは物資だけではない。主人公は結婚適齢期の女性であるが村の若い感性は因習というセメントで息苦しく固められているのだ。

主人公は自分の未来を予言する。病弱な母親との2人暮らしのこの村をわたしは捨てて出て行くだろう。それはそれほど遠くない。わたしは親を捨て、村を捨て、最低の人間になるだろう。

果たして春が来てずいぶん日程を遅くして村にジプシーの熊使いがやってくると彼女は公衆の面前で間髪入れず吸い寄せられるようにしてその卑しい熊を連れた若い物売りの男に抱きつくのだ。

さて村の面々はさして驚いてはいない。謎めいた幾つかのジプシーの儀式が手際よく済まされ、彼女は熊使いの男に連れられて村を去っていく。

驚いたのは物語の終わりである。彼女は10数年後、それが誰にでも予測できたかのように、そして彼女自身それを予め予定していたかのように男と離れ地方の辺鄙な村々を放浪していることを若い頃の彼女の友人たちは知る。

そして母親はその娘が卑しい人種と同衾したという理由で事件後村を排斥され貧しい家屋内で孤独死しているのが後年発見されたという語りで物語は終わる。

こう書くと悲しげな物語だが巧みで無駄のないペトコ・トドロフの筆致は生き生きと躍動して情景を良く描き、わたしの脳内の主人公の彼女は徹頭徹尾思春期の魅力に満ち満ちた、その場に居たらわたしでも抱きしめてしまうかもしれないくらいの美しさであり、熊使いの男に至っては決断と行動に優れたワイルドな美男子で、ジャニーズで言えばTOKIO長瀬智也である。

図書館で本を借りた当初はTOKIO長瀬が村の川の上流で熊を洗う記述を丹念に読んだ。目的は熊だった。しかしだいぶ時間が経ってみるとそうではなかったという気がしている。

ペトコ氏のこの小説が史実に基づいた情景を通して人間の美しさを表現したとすればわたしはまだジプシーの熊使いのことを何も知らないのだ。それでもっとも益になりそうなジプシーのルポルタージュ本を検索して選んだのが「立ったまま埋めてくれ」である。

ペトコ氏の短編に登場する女の子もまたひょっとするとジプシーであり、共産主義時代に定住を強いられた民族なのかもしれない。ジプシーのそれぞれの民族間の断絶はジプシーとジプシーでない人々とを隔てる溝と同じほど深い。

思春期のころの思考と感情にはその人個人の独創がある。人の美しさとは見た目ではない。満身の独創力で生きる姿はその出自や背景に関わらず皆美しい。

ジプシーたちはの美しさとはそんな景色だと感じている。そしてそのキャラバンの先頭には踊る熊が居たのである。