恨のヒト

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韓国ドラマ「天地人」には何人かの孤児が登場する。

ところがこの孤児という言葉が適当ではない。この1年でわたしはかつてない心境の変化を得た。それは自分が今日生きていることイコール親が在ってのDNAの連鎖である。親は居る。親の存在はけして無ではない。

だからそうだな、「天地人」に登場する何人かの孤児は厳密には『生みの親からの養育が適当ではなかった子ども時代を持つ人たち』ということになるのかなあ。

幾つかの場面を見ながら『恨』の一文字が浮かんで来た。まったく韓国ドラマはこういうのが好きなんだ、ってな具合にさあ。

恨は強い。恨はそれが正しいか正しくないかではなく、瞬間の情熱である。俺はお前を許さない、いいか、お前のどこが許せないかを今から言ってやるぞ。わたしはこうした恨のシーンはじつはあまり怖くはないのだよ。韓国人は本当にこういうやり取りをやるものだ。見ていてなんだか懐かしかったくらいだ。

意外なことだが、その瞬間に情熱を出し切ってしまうと、恨そのものが心から根絶やしになることが実は多い。歌謡曲なんかには恨何百年と歌い上げるものもあるが、何百年も生き続けられる人間はどこにもいないし、そんなことしてたらストレスで早死にするだけだよ、なんて思う。

でも言葉がキツいからさ、突き刺さるからさ。そんな風に言う人もいるが、身に覚えのない過失であれば突き刺さることなどひとつもないのだ。お前のことを恨んでやると繰り返し言われたとしてもバカヤロウそりゃ誤解だ、お前は馬鹿だな、勘違いだとこちらも負けずに熱いものを返す。これって恨の流儀なのかな。

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わたしはある時期自分の母をすごく憎んでいた。ある日母とやり合う日が来た。ところがわたしはわたしの心の怒りをぶつけられなかった。

何故なら母がわたしに何度も謝罪をしたからだった。それまでのわたしの人生で、目の前で謝っている人に対して、自分の怒りをぶつけたことが無かったのだ。

母と対面する日まで、はたして母は謝罪してくれるだろうかとわたしは悩んだものだ。あのときあっさりと謝罪されて、わたしの脳内の脚本がズレてしまったんだなあ。

わたしは母のことが嫌いで、母が動揺して困ればいいと心から願っていたのだ。母を苦しめたかった。母を痛めつけたかった。貴女を許すくらいなら死んだ方がマシだ。何度も何度も心の中でこの台詞を繰り返し練習していたのだ。

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貴女を許すくらいなら死んだ方がマシだ。この台詞を母に言えなかったことは結局は良かった。「天地人」を見ながらわたしはいろんなことを考えた。

生みの親への思いってのは困った固まりみたいなものなんだね。生みの親生みの親と軽く言いますが1人の人間が産まれてくるときにはそれは数々の段取りがあるわけ。

パトリックそれはちがうよ。パトリックは知らないんだよ。わたしは産んだことがあるから知ってるんだよ。赤ん坊なんてのはわたしの意思とは関係なく産まれて来ちゃうんだよ。‥‥だったら尚更だよ。生みの親になんの責任があるのよ。

わたしはやっぱり言うべきだったのだ。貴女を許すくらいなら死んだ方がマシだ。母はなんて返してくれただろう。ああそうか死ねばいい、今すぐ死んで居なくなれ。かつて母はそんな怖いことを十代のわたしに言ったことがあったけどそれを忘れてたみたいだ。すっかり忘れてなんだかあっさりと謝罪したんだな。

畜生死ぬもんか、わたしが死のうが生きようがわたしの人生だ。貴女とわたしは無関係、わたしを産んでくれてどうもありがとうございますそしてさようならだ。これは10代の終わり頃のわたしの台詞。

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天地人」は涙がポロポロと止まらないドラマなんである。ああわたしはいろんな『恨』を根絶やしに出来て居なかったな。『恨』ってのは相手は無関係。『恨』ってわたしの、わたしだけの、内面の出来事なんだなあ。

母はどうだったのかな。母は自分の『恨』を根絶やしに出来たのだろうか。わたしとは幾度かやりあってお互いにヘトヘトになることが多かったから、あれはあれでまあ良かったんだよね、ね、パトリック。