モスクワは涙を信じない、そしてニコル・マルティネス 歴史に関する試論

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「モスクワは涙を信じない」は映画である。ロシアのことが知りたくて二十歳のころロードショーを観に行ったのは覚えているが映画の内容は全く覚えてない。悲しかったのか、ハッピーエンドだったのか、それくらいは覚えていてもいいんはずなんだけど。

白水社 ニコル・マルティネス著「ジプシー」を読みはじめた。驚きと納得。導入部分をもう5回は読んだだろうか。

ドイツ人歴史学者H・M・G・グレルマンが18世紀に書いたジプシー論。それはその後何百年間にわたり誰ひとりとして疑うこともなかった。じっさいにわたしもその理論からなるジプシー関連書を何冊も読んだのだ。

ニコル・マルティネスはフランスの女性研究者である。翻訳者であり、これまでのジプシーに対する固定観念を根源から見直そうと努める彼女の論文を熱心に解読する水谷驍氏の著作も少し前に読んだ。

文学、音楽、絵画、演劇。いわゆるカルチャーと呼ばれるものの功罪。それらは需要があり供給がある。年に一度、もしくは一生に一度限りの思い出作りならばいいではないか。容易に理解しやすいものを楽しむのがそんなに悪いことか。なんだかそんな声が聞こえてきそうではないか。

正直わたしはジプシーの起源研究にもジプシーの救済ボランティアにも手を付けるつもりは毛頭ない。だから今感じている、どうにも抑えることが困難な気持ちの揺れには当惑している。

決めつけないで。わたしを勝手に区切らないで。ニコル・マルティネスの歴史的試論は、酷く狭量な真実のわたしを呼び起こす。

在日三世のわたしはこれまで「可哀想ブランド」で括られることは全然珍しくなかった。それは欺瞞に満ちた偽りの自尊心。発展途上、わたしは見事に未熟だった。

だから被差別民族への救済という大義は虚偽だとも、それが悪行だとも今も考えてはいない。

何故ならわたしは真実を愛しているのだ。その瞬間、その瞬間の隣人たちの憐れみの眼差しは100%嘘ではなかった。「可哀想ブランド」をまんざらでもないと許容したわたしの弱さこそが正に可哀想であり、それは紛れもない真実。

強くなるしか道はないんだな。

揺れる心。悲しむことはしたくない。なんだか今は悲しんだら負けだと思っちゃうんだよね。

ニコルさん、会ったこともないニコルさん。遊動の人生は人を強くするかもしれないですよ。まだ半分も読んでないけれど、ちょっときついけど読むよ。

「モスクワは涙を信じない」。どんな映画だったかは忘れちゃったけど、涙を流したくらいでなんだっていうのか。涙にだっていろいろある。

涙はある種の脳内ホルモンを分泌し、記憶を整理して気持ちを落ち着かせるらしいよ。

わたしも涙は信じない。泣いて泣いて誰かをビックリさせたとしてもゴメン無かったことにして、とか言って次の幕に進みたいな。次の幕を開けるのはもちろんわたしなのだからさ。