ノーサイド

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https://youtu.be/U2HlkYHgT88

(コトリンゴ/ノーサイド)

映画「マイマイ新子と千年の魔法」を観た。仲良しの友人が山口出身でときたま出る彼女のお国言葉が良いのだ。映画を観ながらそんなことをはじめのうち呑気に思ったがこれは結構シリアスな内容の辛い映画だった。

主題歌の子どもがなんとかというコトリンゴさんの歌は良いとは思えなかった。ただ子どもの世界はそんなに平和なものではないのだと、彼女もたぶんそんなことを歌っているんだよね、そうだよね、とかそんな確認をしたくなり。

金魚を甦らせようと子どもたちがデタラメの念仏を唱えるシーンには思わず涙が溢れた。一升瓶に生米を詰めて家出する新子は屈強だった。わたしたちの明日を返せと盛り場の大人の女に迫る新子。

この盛り場の女だって遠い昔は子どもだった。わたしは自分はDIDだからと適当な気持ちで容易い気持ちで弱々しい子どものつもりで映画を見続けていた。しかし新子の叫び声は安楽に過ごしている今のわたしに向けられているように思えてわたしは瞬間で大人に戻ってしまった。

大人というものはそういうものだ。金魚を甦らせる魔法など生身の人間には無いのだ。そんな力は誰も持たぬ。そして金魚など小さな命に過ぎぬとわたしは頻繁に明日を諦める。

映画の舞台は高度成長期の日本だけど新子たちの暮らす山口は大変な田舎だ。わたしも最近では道を歩いたり、町を車で通過するときにここは鎌倉道かなとかここは中山道かなとかふと思うときがある。

道というのはみんな誰かが作ったものだからその道幅や高低の有る無しで作られた時代を算定出来るときもある。古い家屋が連なる道のその道幅が凄く狭かったりすると、それがたとえアスファルトのピカピカの道路でも、ああここは昔は馬が荷物を運んだんだろうなとしゅんかん閃くことがある。ぜんぜん見当はずれかもしれないが。

反戦映画が嫌いで観ていると欺瞞を感じて鳥肌が立つ。反戦反戦って言いつつ戦争終わらないんじゃんとか思う。脳の中でずっと戦争が終わらないんじゃんって、いきなり戦場に連れてこられた弱々しい金魚みたいになるメンタル弱いわたし。

マイマイ新子」はそういうありがちな反戦映画とは違う肌触りがあった。ただし新子の持つ強さは子どもとか大人とかでくくることには意味はない。大人は子どもを苦しめてはいけない。思ったのはたぶんそれだけだな。