あしながおじさん3

柴山雅俊「解離性障害」ちくま新書をちらちらと読んだ。具合が悪くなりそうになり途中で本を閉じる。きっちりとは読めない。本の裏に白黒写真の柴山というドクターの顔がある。あー、こんな顔かー、とか思いながら今はそれを見てる。

私はいわゆる多重人格者のライフストーリーが苦手だ。読みたい!と思い図書館から借りて来るのだがちゃんと読めたためしがない。第一にお話が可哀想だ。気持ちが沈んでいく。回復したという体験はなにか妬みの気持ちが湧いてくるのかまたしてももやもやする。私ってきっと小さい人間なのだな。

治療法や精神科医のハウツー本はどうだろう。初診当初は「私、当てはまらなーい」という誤った確認の材料だった。「もしかして、なんで病院来てるかわかんない?」主治医は私に尋ねたものだ。私は頷く。「夜になると怖い男の人が出てくるんです!」主人は必死だ。私は何も覚えていないのだ。

あの頃を思えば私はかなり成長している。それでもビッグな肩書きを持つ偉い先生の書いたものは気持ちのどこかではっきり拒否反応を起こすみたいだ。しかもこのこだわりはどうかと思うがハードカバーの本が苦手だ。私は読むのに時間がすごくかかるので表紙が硬い本は手が疲れてしまい、いつしか体が受け付けなくなってしまった。本は文庫本や新書サイズがいいな。それらの本は限られた枚数で内容を完結させねばならぬという要求に応えていて簡潔で専門的になりにくい。専門家による専門家のための本は部外者には難解だ。私は当事者だが治療云々と言われるとなーんか逃げ出したくなる。

弱虫なんだな。きっとな。

脳への刺激は過剰であってはならないが、揺さぶりがないことには進歩は望めない。この柴山という先生はちょっと面白い事も書いている。ぼちぼち読んでみたい。

前書き長いよー。あと30分しかない。最近頭痛が収まっているのでなんとかそれを維持したくてキーボードに向かう時間は60分と決めている。電磁波は大敵だ。

あしながおじさんだが、続編について今日は何かと思いついたのだった。続編にはニューフェイス、ロビンマックレイという医師が登場する。主人公はジュディーからサリーという大学時代のルームメイトへと変わっている。確か20代の頃に初めて続編を読んだ。私はこのロビンマックレイという医師のキャラクターに強く惹かれた。生きづらさを抱えている。そして妻は精神を病んでおり、徐々に悪化して死んでいく。続編も書簡体小説だが、このDr.ロビンの手紙は小説内では現れない。書いてないのかな。そうかもしれない。にもかかわらず、Dr.ロビンの実写映像はかなりくっきりと私の脳内には写し出されている。

ラポールという専門用語がある。

絆とか信頼とか、そういうことだと理解しているけど違うのかもしれない。

私は病んでいるから、DIDだからきっとそうなっちゃうんだと思うんだけど、なんてーか、そういうのは言葉じゃないんだよね。

私は私の中で緘黙症になっている幼児の私に何かを説明しようとし続けているのだけれど、すぐにあきらめてDr.ロビンマックレイみたいに引きこもるのだ。

もちろんあきらめないサリーのような陽気な人格も実のところ存在する。プライバシーポリシーの関係ですべては書けないのだが(めんどくさいな)

ちょっと崖地の部分ができてしまった脳内リゾートに前向きに取り組むのにあしながおじさんの続編は有効なのだ。

子どもの本なんだけどね。